カルニタス

Netflix「タコスのすべて」にみる「分かる」こと、そして「教育的態度」について

    Netflixのドキュメンタリー番組はどれも秀逸ですが、とりわけ料理に関するドキュメンタリーはたまらない迫力と魅力を持った番組が多いです。例えば、少し前にやっていた「美味の起源 ―奥深き潮州料理の世界へ―」で出てくる素材や料理たちは、私たち東京に住んでいる人間が想像できないような料理が、それもこれ以上ないくらいに美味しそうな映像とともに紹介されていきます。秀逸なのは、その料理がなぜ生まれ、何故生き残り続けているのか、そして、その土地やそこに住む人々の生活とその料理との関係性についてとても丁寧に映し出しているところです。ここには、番組作成者の「潮州という土地、文化を理解したい」という強いパッションを感じるのです。そのようなパッションを持ったドキュメンタリー番組は私の心に強く響きます。この番組を見ていると、潮州という中国の中の一地方都市が、まるで世界のすべてであるかのような錯覚にとらわれます。いつか潮州行ってみたいなあ!

 今回紹介する「タコスのすべて」は「美味の起源 ―奥深き潮州料理の世界へ―」の延長線上にある素晴らしい番組です。この番組を見て改めて知ったことは「タコス」という「概念」はとても大きな概念で、自分の頭の中では「タコス」というものについてぼんやりとしてしか理解していなかったということです。

 この番組では「パストール」「カルニータス」「カナスタ」「バルバコア」「アサーダ」など、様々な種類のタコスと、そのタコスを愛する人々、それらが生まれた土地と文化についての記述が行われます。一方、「パストール」についてのわかりやすい解説は基本行われません。視聴者は、「パストール」を作る人々、食べる人々、そして「パストール」が調理されていく過程を「うまそうだなあ!」という欲望とともに見つめながら「パストールとは何か?」という問いについて番組を通して「分かっていく」のです。

 「知識を得る」ということは「分かる」ということです。すなわち、ぼんやりしていたものを分類することができたり、実は別々のものを統合することができたりすること、これが「分かる」ということです。例えば、今では私たちはだいぶん「分かって」きている「パスタ」という概念があります。そして、「パスタ」には「ショートパスタ」と「ロングパスタ」があること、さらには「ショートパスタ」の中にも「ペンネ」「フジッリ」「コンキリエ」などがあり、それぞれの特徴や相性のあるソースがあること、あるいは「ショートパスタ」は落ち着いて食べるものだけど「ロングパスタ」は供されたらすぐに食べ始めるべきものであること、などについて「分かって」きている。それらが「分かった」ことによって「パスタ」というあいまいな概念が「スパゲッティ カルボナーラ」とか「ラザニア」とかの分断された具象物(実はこれも概念なのですが)のようなものとしかつながっていなかったところから世界を広げていくことができる。世界が広がることによって自分の人生が豊かになる(例えば、「リングイニ」を知ることで「カルボナーラならリングイニの方が自分は美味しいと思う、という考えを持つことができる)わけです。

 「分かる」上でもいろいろな「分かり方」があることにも気が付きます。例えばワインにおいては・・

ボルドーワイン → 産地別に「分かる」
ピノワイン → ブドウ品種別に「分かる」
オレンジワイン → 製造工程別に「分かる」
フルボディのワイン → 味わい別に「分かる」

 など、私たちは「分かる」ときいろいろな「分かり方」をしています。これらの「分かり方」が「分かる」ことでも、私たちの人生は彩が華やかになります。

 「タコスのすべて」に話を戻します。この番組を見て私が打ちのめされたことは「あああ、自分はロサンゼルスに二年も住んでいたにもかかわらず、タコスについて全く分かってなかった!」ということです。本当に「タコス」については、昭和の時代の一般的な日本人が持っていた「パスタ」程度の「分かり方」しか分かっていなかったということに驚嘆しました。そして、次に思ったことはもちろん「タコス食べたい」、そして「いろんなタコス食べたい」ということです。これこそが「学習した」ということだと私は思います。

 「タコスのすべて」のような番組こそが「教育番組」なのだと私は思います。「分かった」ことの感動を伝染させていくことが「教育」の本質なのではないか、と「分かった」気がします。この番組には製作者側の「今まで俺はタコスについて全然わかっていなかった!」という反省の感情と「この知の躍動をほかの人たちにも伝えたい!」という衝動を感じることができます。私はこの衝動こそが「教育的態度」なのだと思います。

 自己批判的にもなりますが、今の医療関連のフィールドにおいて教育的立場に立つ人の教育には、以上の意味における「教育的態度」を感じることが残念ながら少ないと私は感じています。多くの教える立場にいる人たちの姿は、止まっているように見えます。止まっているところからいくら「OOというものは、こういうことなんだよ」という玉条がおりてきても、それは学習者には伝染しないのです。その興奮のない教育的処方は、「自分の知の世界にこの者たちを引きずり込みたい」という支配の欲求のみが見えてしまうのが、私が「教育」という行為や教育者が持つ態度に対する抵抗感なのかもしれません。

「世界はこんなにもビビッドで、『分かる』ことによってこんなに人生は豊かになるんだ!」という興奮を分かち合うことが、教育のエッセンスだと今私は考えています。その意味では、教育者のあるべき姿は自分が理解したことに対して感動し続けていること、そして、今もなお「分かる」ことに対して興奮し続けていることなのかもしれません。

ちなみに、本稿のトップフォトは、三軒茶屋の名店「ロス タコス アス―レス」で食したときに撮影したカルニータスです。超おいしい!!お店のレビューは別途
http://umakara.net/bissy/%e3%83%ad%e3%82%b9-%e3%82%bf%e3%82%b3%e3%82%b9-%e3%82%a2%e3%82%b9%e3%83%bc%e3%83%ac%e3%82%b9%ef%bc%a0%e4%b8%8a%e9%a6%ac%ef%bc%88%e4%b8%89%e8%bb%92%e8%8c%b6%e5%b1%8b%ef%bc%89/
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