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暮らしの手帖「商品テスト」と交錯する複数の物語

   40年前に「暮しの手帖」と出会い、その衝撃から人生を方向付けされてしまった自分としては、今回のNHK朝ドラ「とと姉ちゃん」がもう他人事とは思えず食い入るようにみています。そして、「暮しの手帖」の本質とも言える「商品テスト(ドラマの中では「商品試験」という呼び方がされています)」についての物語が始まり、その内容と子供の頃の自分を重ね合わせ感慨にふけっています。

 たぶん10年くらい前に神田の古本屋で買った1975年当時の「暮しの手帖」を久しぶりに開いてみました(写真です)。その号は「電子レンジ」の商品テストを行っていたのですが、そこにかかれている評価は「電子レンジ この奇妙にて愚劣なる商品」「どうひいき目に見てもせいぜいあっためなおすのにしか役に立たない そんなものに10万円前後も出すのはバカげています」という大変辛辣な言葉が書かれていました。ここで試されていた電子レンジは全て東芝やシャープなどの大手メーカーだったのですが、勇気あるなあ、と。相当腹をくくっていないとこの編集は不可能です。

 厳しい評価計画と評価基準を綿密に作り込み、一切の妥協や温情を排除してただひたすら「商品の価値」を評価する商品テストは、あの当時から科学的視点の本質を具現化していました。決して有名な科学者や、膨大な知識を持っている人間に科学的視点が宿るわけではないのです。今超一流と言われている医学雑誌でさえ、製薬メーカーや医療行政との利益関係から独立して真実を追求して行く、という視点を保持することは大変困難なのです。「意図や情から独立していること」「利益相反関係から独立していること」「アウトカムの尺度と測定方法を吟味すること」「一度決定した計画を安易に変えないこと」「その情報を使う人間にとって意味のある結果のだ仕方をすること」「相対評価と絶対評価を意識していること」、これらの、実証的規範を提示する上でコアバリューと考えられる視点を当時の「商品テスト」はしっかりと持っていました。そのような視点から切り出された情報は、政治的なパワーに押しつぶされない強靭さと妥当性を持っています。

一方、評価情報というのは、その情報の妥当性・信頼性が高ければ高いほど社会や個人に影響を及ぼします。当初、「消費者にちゃんとした商品を選んで買ってもらうため」、そして「生産者により質の高い商品をつくってもらうため」に提出された商品テストの情報は、特定の生産者にとっては命取りとなるような状況を生むことになります。ここで、自らが生み出した情報によって甚大な不利益を得る人々への思いを馳せる事は、「物語に向かう態度」ともいえるでしょう。そして、この態度は、おそらく評価を行い情報を発信するものの軸を揺らします。

 主人公のとと姉ちゃんが、「商品試験」で酷評されたトースターの製造工場の社長のことが気になり、その会社をを訪れる場面が先週の放映でありました。そして、その酷評のために会社の存亡まで危機に陥ってしまった状況を見てしまいます。ここで、彼女は「浮かび上がったもう一つの物語」に触れるのです。他者の物語に触れることは、自分を揺らすことそのものです。浮かび上がった「もう一つの物語」に触れた時点で、そこに他者に対する共感が生まれるのです。それは、自分が持っていた信念とか価値観を揺るがす体験です。ここで、自分が持っていた信念や価値観、あるいは認知のスキームが揺らぐ瞬間は、ナラティヴにおいては大変重要なものです。この体験によって人は変わり、人と人との関係性も変化していきます。人の成長という意味においては、この「揺らぎ」は肯定されるべきものです。

 一方、「それでは、やってられないのではないか?」というツッコミが出るのもまたよく理解できます。私自身、「それでは、やってられないのあではないか?」と思ってしまうからです。何かを評価したりすることを生業としている場合、評価される側への共感は評価への公正性を危ぶむものになりかねません。また、おそらくすべての「専門家」といわれる人間は、クライアントや、あるいは敵対するクライアントへの共感が、専門家としての適切な判断を揺らがせる危険性を持っています。 

 私は多くの医師が免許を得て臨床の経験を積めば積むほど、どちらかというとサイコパス(ここでは、他者に対する思いやりや共感性が欠如した人格性の意味で使用しています)の要素が強くなっていくと思っています。これは部分的には仕方のないことかもしれません。そして、ある程度必要なことかもしれないとも思っています。なぜなら、他者の痛みに対して深い理解をするということは、自分の持つ行動規範や基本的な価値観にくさびを入れることだからです。「物語能力」は、専門家にとって明らかに必要な能力です。物語能力がない専門家は、折り合いをつけることができません。また、専門的価値による支配を自覚できません。その意味では、他者の経験を物語として知る、あるいは知ろうとする、という能力は専門家にとって必要なものだと私は考えます。一方で、他者の物語に触れ、そこに心動かされながらも、なおサイコパスを気取る、ということも専門家の役割なのかもしれないと最近では考えています。

 揺らいだ自分を再構築するのもまた物語だったりします。先週の「とと姉ちゃん」では「物語に触れ、それを知ってしまった自分が揺らぎ、そしてまた別の物語によって別の自分となって立ち直っていく」という姿がとても分かりやすく丁寧に描かれていました。その後、主人公はもう一度その会社を訪れ、社長に謝罪するとともに、「私たちは生産者の方々に対しても、さらに良い商品を作ってもらいたいという思いを込めて商品試験をしている」というメッセージを送ります。このメッセージは結構微妙です。なぜなら「評価者側(多くは、強い立場に立つ者)の物語」をその被評価の当事者に分かってもらおうとするメッセージは、結構な暴力性も秘めているからです。これは、患者のために行った治療で副作用が起きてしまい苦しんでいる患者に対して、「自分はあなたのために精一杯やっていることをわかってほしい」と医療者が発することに似ています。だから、このシーンを見ていて「うーん俺にはできないなあ」と思っていたのですが、物語がうまくそこで重なれば、そのメッセージはトースター生産会社の社長の心を動かし、別の物語を生む大きなきっかけになるかもしれません(番組では実際そうなっていました)。

 「暮しの手帖」で人生を大きく変えられてしまった自分としては、評価する立場、あるいは、専門的な見地に立つ立場がもつ信念や価値観が、しばしば他者を飲み込み傷つけるという負の部分をしりながら、それでもいかにその立場や土台以外にあえて頓着せず、自分の立場を崩さないかというバランスを保つことのタフさについて改めて考えています。

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