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ルールとは、基本的に理不尽であるべきである

先日熊田曜子さんが児童館の入館を断られたことについてブログで紹介し、それがいろいろな物議をかもしていました。いくつかの切り口はあったかと思いましたが、印象的だったのは、熊田さん当人は「ちゃんと下調べしておくんだった。自己反省」というニュアンスで書いたブログが、なんだか思わぬ方向に議論が飛び火し、あたかも熊田さんが「入れてもらえなんて。プンプン!」てなってる的な解釈にされちゃってるところはちょっとびっくりです。そして、児童館の職員の方々はとんだとばっちりだと思いました。慎重に決めたルールに基づいて通常の業務運営をしていたら、突然「けしからん!」みたいな矢がビュンビュン飛んでくる感じだと思います。

この児童館の職員を「けしからん」と言っている人たちは「ルールがけしからん」と言っているのか、それとも「ルールを柔軟に破らない鉄面皮運用がけしからん」と言っているのかちょっとよくわかりませんが、もしも後者だとしたら私はそれには反対です。

はじめに「ルールを柔軟に破らない鉄面皮運用がけしからん」という場合は確かに存在します。例えば大災害が起きた時や、ある人が命の危機にさらされているような、いわゆる「きわめて非日常」や「のっぴきならない状況」においては、「ルールだから」といって鉄面皮運用をするべきではありません。その時には必死で考えて、ルールを破るだけの価値のある決断を勇気をもって行うことが正義だと思います。

しかし、「大人1人につき子供2名まで」というルールがある中で大人一人に子供3人連れてきた状況は、とても「のっぴきならない状況」とは思えません。このようなときに「子供と母親がかわいそうだ」とか「当事者の身になって考えてほしい」という根拠でルールを発動した側を「けしからん」とすることは、ルールが持つ本質的な意味を抹殺してしまいます。

私は、ルールとは必ずある人にとっては理不尽なものであると考えているし、むしろ理不尽であるべきだと考えています。なぜなら、ルールの目的は「無理やり価値を一つにまとめ上げて秩序を保つこと」だからです。人が3人以上集まれば、そこには必ず価値のコンフリクトが生まれます。人は皆大切なことと大切でないことがそれぞれ違っています。そして、ある人の利益を優先すればほかの人の不利益が発生することが社会の常です。そこで、各利害関係者がそのたびに話し合いをして合意形成をすればよいのかもしれませんが、社会はそれではうまく回りません。その理由は大雑把には二つです。一つは、あらゆる社会的事象に「話し合いと合意形成」をしていてはとてももたない、という理由です。そしてもう一つは、実は「話し合いと合意形成」は、そこに集まった関係者に「強者」と「弱者」が存在したとき、弱者にとって承服しがたいようなことが合意事項として成立してしまう危険がある、という理由です。

だから、ある国家やあるコミュニティにおいて発案し存在する「ルール」は、その国家やコミュニティが持つ多様な価値観の均衡を取り計らう天秤のようなものでなければなりません。そして、それは単なる人間個々の損得の平均値ではなく、「国家」や「コミュニティ」全体の理念も含んだものである必要があります。だからこそ、「ルール」はそれが発動された現場においては、発動され直接の不利益を得る個人にとっては基本的に理不尽なものなのです。

私は、人から良く「破天荒」とか「自由人」とか言われるのですが、実はかなりルールを厳格に守ります。クールビズの時は半そで開襟シャツ、それ以外の時はネクタイ着用です。なぜなら、それが自分の働いている組織のルールだからです。「こんなのは間違っているルールだから」という理由で個人でルールを破っている人を私は信用しないし、自分が生きる社会に対するリスペクトがないと考えます。「このくらい、大目に見てもいいじゃないか」という理由でルールを逸脱するのも反対です。

私が大切にしていることは、ちゃんとルールの中で生活し、ルールの息苦しさをちゃんと肌で感じ取り、この息苦しさが秩序を保つうえで不合理だと感じたのなら、ルールを変える提案をし、ルールを変えるために仲間を集い、ルールを変える努力をする、ということです。私の身の回りにも、この国にも、私が「こんなんおかしいぞ」と感じるルールがとてもたくさんあります。しかし、それはたまたま私の価値観とコミュニティの価値観や理念との間に距離があるだけなのかもしれません。だからこそ、隣の人に「このルールおかしくないか?」とまず説いてみて、その後バズり、均衡の取れていないルールを更新していくことが社会の構成員としてやるべきことなのだと思っています。

今回のブログで「このルールっておかしくない?」という声があがり、議論になり、ルールの均衡に対し疑問の輪が膨らむというのはとても良いことだとは思います。ただ、その上では、コミュニティのルールはそのコミュニティの人たち当事者の価値観によって形成されるものですから、そこに対する謙虚さは持っていたいと思います。もちろん国の法律についてであれば、この国に住む人全員が当事者です。

最後に、逆説的ですが、先ほど私が書いた「ルールを柔軟に運用するべきのっぴきならない状況」はどう判断するのか?という問いは実は結構難しくって、ここは「多くの人が『のっぴきならない状況』と判断できるような状況」としか言いようがありません。でも、この解釈は難しいのです。たとえば、私が担当している入院患者さんが急変して危篤状態になっているとき、病院から私に連絡が入って私が車を飛ばして病院に行こうとしたとき、20kmオーバーでパトカーにとめられたとします。これは、わたしにとっては確実に「のっぴきならない状況」ではあるのですが、多くの人にとっては「日常の延長なのではないか?」と解釈できる状況かもしれません。

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