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イチローの安打は4257本か、2979本なのかに関する議論

今回のイチローの4257本安打は、本当にすさまじいわけですが、それよりも今回印象に残ったのはイチローの公に対する対応のスマートさと、他者への思いやりでした。これは本当にまねできないなあ、と思ったのです。

イチローは、インタビューの中で 「ここにゴールを設定したことはないので、実はそんなに大きなことという感じは全くしていないが、チームメートやファンにああいう反応をしてもらえてすごくうれしかった。それがなかったら、何も大したことはない」と淡々と話したといいます。しかし、そんなはずはないのです。きっと、これ以上ないほどの達成感がきっとあったのではないかと私は想像しています。にもかかわらず、なぜ「そんなに大きなことという感じは全くしていない 」と彼は行ったのでしょうか?それはきっとピートローズへの敬意と思いやりからくるものだと私は思いました。

ローズさんはイチローの「4257本」に対し、「それは4257本ではなく(メジャーでの)2979本に過ぎない」という認識があるようです。そして、巷でイチローが「ローズの記録を塗り替えた」という「評判」に対し、あまり快く思っていないということがいろいろなメディアを通じて巷に伝わってきました。

イチローはきっとローズさんの感じた、おそらく超一流なりの複雑な感情を、同じく超一流のアスリートとして嗅ぎ取ったのでしょう。ローズさんの言った「高校野球の時の記録」というのはなんとなく言いすぎな感じもありますが、おそらくそこにはジョークも混じっているのだと思います。いろいろな感情が入り混じって世の中に発せられた言葉なのでしょう。そして、イチローはそこに共感したのだと思います。「4257本」がうれしくないわけはないと思うのですが、ここで無邪気に喜ぶことに対し、ローズさんに何らかの敬意と配慮を持ったのだろうというのが私の推察です。そして、その配慮に私は感動しています。

ここに「事実」があります。その「事実」とは、「イチローは4257本のヒットを打った」という事実と、「イチローは2979本のヒットを打った」という事実です。おそらくこの二つの「事実」はどちらも正しいのです。すなわち、事実は一つではないということです。もちろん「プロ野球で一番たくさんのヒットを打った選手」をギネスブックに乗せるときに何らかのルールが必要で、そのルールに基づけば、ギネスブックにおける「プロ野球で一番たくさんのヒットを打った選手」に関する事実は一つになるのかもしれません。しかし、それをすべての事象について「一つの事実」としてしまうことに大きな意味があるとは私は思えません。「4257本」と認識する人もいていいし、「2979本」と認識する人もいていいのです。

今回面白いのは、確かイチローが日米通算3000本安打を打ったとき、張本さんはそれを全面的に喜んでいました。それを受けてイチローは自分の日米通算3000本を心から喜んでいました。今回の対応とは大きく異なるのです。そして、それでいいのです。事実は、常に関係性の中に存在しています。今回、イチローはいろいろな文脈の中から「このヒットは4257本とも受け取ることができるかもしれないけど、どちらかといえば2979本かなあ?」という認識することを自分で「決めた」のです。なんという責任感でしょう。

翻って、このヒットを「4257本」でなければならない、という人たちが少なからずいます。そして、「いや、あれは2979本目でしょう」という人間を許さない人たちがいます。その人たちにとっては事実はかなず一つでなければならないのです。そこで「あれが4257本目である根拠」について実に険しい顔をしながら延々と語り、反逆因子をつぶしていこうとします。一つの事実に世界を単色に塗りつぶさなければ気が収まらないという世界です。私は、こんな世界は悲しい世界だと思います。

いろんな人にとって、自分とは異なる事実があっていいと私は思います。そして、そこに常に他社に対する配慮と思いやりがあれば、世界は調和に向かっていくと私は思います。まさに自分のことにもかかわらず、自分の「4257本」についてアナログに認識し、それを感情のレベルまで落とし込み、しかも世界に向けて話すことができるイチロー選手に私はこの上ない敬意を抱くのです。

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