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「タバコダメ」議論の背景にあるもの:キモチのよい事を追い求めるのは、よくないことか?

タバコに関する「まじめな医師」たちのスタンスが相変わらずマッチョなので、最近はすっかり喫煙者擁護派の尾藤です。この議論はやはり大変考えさせられることは多いのです。タバコ議論は以下のような疑問を象徴的に浮かび上がらせます。あ、とりあえず、医師としてこの世からタバコがない社会のほうがいいなあとは思ってはいます(今となってはそれも揺らいでいます)。

・ 健康ではないことは、悪いことか?

・ キモチのいいことは、よいことではないのか?

・ 健康でない行いを進んでしている人に、健康プロフェッショナルはどう向き合うべきか?

・ 「科学的に正しくない」=「あなたの言っていることは間違っている」なのか?

全部考えていると話が長くなるので、まずは面白そうな2番目について気になることを書きます。

奥田民生のごく初期の名曲に「たばこのみ」という曲があります。少し歌詞を紹介します。

   だれがなんといおうと たばこを愛してる

   それはもうナイスな ともだちさ

   じゃましないでほしいな わずかな安らぎを

   最近の唯一の たのしみさ

   ひとつくらい 脱ヘルシー 人間だもの

   当然といいながら

素晴らしい歌詞です。特に最後の「当然だといいながら」の一説は、「たばこのみ」として世間から白い目を向けられつつ、それでもこっそり胸を張る感がたまらないです。彼は20年も前にこの曲を書いているのです。天才ですね。

人が人生を送る上で”キモチがよいこと”を求めることは「よい行い」だと私は考えています。これは、たぶん極端に功利的な志向をもつ私の中での考え方です。たしかに、人が生きていく上で幸せだけを価値とするべきではないですし、喜怒哀楽のうちの(怒)や(哀)も人生の重要な意味を持つものだということは理解しています。しかしながら、おおむね不幸よりは幸せのほうがいい、怒っているよりは笑っている方がいい。そして、より多くの人がキモチのよい状況を産んでいくことがよい行いなのだろうというざっくりした考え方を持っています。

一方、医療サービスというものは、キモチのよいキモチのよいことおを目的としたサービスではありません。ほとんどはその逆の感情、すなわち、不安や苦痛を顧客とした商売です。行動経済学が指摘するように、不安や苦痛を顧客とした商売は安定しています。

では、医療に携わる人間は、はたして人が”キモチがよい”ことを希求することを否定することが義務であるという立場に立つべきなのか、というのが私の問いです。そして、現時点での私の考えは、医療者も”キモチがよいことは、よいことだ”という価値に寄り添ってもよいのではないのか、というものです。

このような意見を言うと大体出てくる反対意見は「タバコは身体依存があって、本当はやめたいのにやめられないのだ」とか、「キモチのよいことが善だとしたら、覚せい剤をやっている人もいいことをしているのか?」というような反論です。このような反論をする人の主張は部分的には正しいのです。ただこういうのはシームレスに並べてみればなんとなく見えてきます。たとえば、オナニー禁止、フリーセックス禁止、バイク禁止、酒禁止、タバコ禁止、覚せい剤禁止、というような感じに。ここには、「依存のために自分もしくは自分以外の人間に害を与える習慣」という理屈が浮かび上がってきます。ただ、その面からいうなら、個別の事象で言うなら飲酒のほうがタバコよりも他人に害を与えるインパクトは強いことがしばしばあります。たとえば、殴っちゃったり、ひどい暴言を吐いたり。

私はお酒が大好きですが、お酒に飲まれることがないように節度を持ってお酒と付き合って生きたいと思っています。私はタバコは吸いませんが、この民生の曲を聴くたびに、ああ、たばこってキモチいいんだろうなあ、と共感したくなります。

繰り返し言いますと、医師として私はタバコを吸う人たちをもっと少なくしたいと思っています。しかし、今のようなタバコのみだけを集中的にいじめるような社会というのは、窮屈な社会だと思うのです。キモチのいいことはいいことだけれど、そのトレードオフで自分や他人に与える害もある。それはおそらくあらゆる生活習慣にあるのだという感覚を持って生きていきたいのです。

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