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リサーチマインドとは何か?

 さて、専門医機構が主導となって新しい専門医育成のための後期研修プログラムが始まります。19分野全部見ていないのでよく知らないのですが、少なくとも内科専門医の中には「リサーチマインドを養成する」という言葉があります。よい臨床医になるのにリサーチマインドは必要でしょうか?たぶんそれは、「リサーチマインドが何か?」ということによるのではないかと思うのですが、私の個人的な意見としては、研究なんかできなくてもよい臨床医にはなれます。

 私は臨床医であり、多分同時に研究者です。仕事の配分で行くと、臨床:研究:教育:管理の割合は2:2:3:3くらいですねたぶん。ちなみに教育研修部のカリキュラム運営というのは教育ではなく管理の位置づけです。1995年から研究というものに手を染めはじめ、臨床疫学とか統計学とかデータマネジメントなどの武器を手にずーっと研究をやり続けています。競争的研究費も獲得し続けています。治験はいっさいやらないのですが。同時に、私の周りにはとても優秀な臨床家がとってもたくさんいます。私よりも若い彼女らの多くは臨床家として私よりも優秀な部分がたくさんあります。特に知識レベルではほとんど彼女らにかないません。そして、彼女らもリサーチの開始を試みます。たまに秀逸なリサーチクエスチョンを出してくるレジデントがいます。しかしながら、彼女らの中で実際にピアレビュージャーナルに論文をアップするに至るのはごく一部です。

 これは確かに残念な現状なのかもしれませんが、私はそれでもいいと思っています。繰り返しますが、研究のスキルなんかなくったって優秀な医療者にはなれます。だから、ごく一部の医療者が研究をすればいいと思っています。では、そのごく一部の医療者とはどのようなグループなのでしょうか?たくさんの若い医療者を見てきて私が感じるのは「それは、研究を行うことを快感だと感じるやつである」というものです。

 私がなぜずーっと研究活動に関与してこられたのかというと、それは「もっと日常臨床に妥当性を作っていきたい」という使命感ではありません。ぶっちゃけそんなもんは皆無に近いです。私の研究者としての生活を支えたモチベーションは二つです。一つは、「医療における合意形成、そこで行われる主観情報の取り扱いとコミュニケーション」という、大変各論的な、かつマニアックなテーマに私がすっかり魅了されてしまい、そこを深く勉強するとともに、そこにある知識に自分自身がコミットしたかったという欲求です。私は、おそらく「医療における合意形成、そこで行われる主観情報の取り扱いとコミュニケーション」というテーマ以外で何か研究をやれといわれても「無理」と答えます。私は、その領域において「巨人の肩の上に乗り」たいのです。研究心というのは、各論的でマニアックなテーマへのラブずっきゅん加減が生むのだと思っています。

 もう一つは、単純に研究という行為が好きだということです。基礎研究が好きな人もいますが、私は臨床研究のプロセスにその魅力を感じました。リサーチクエスチョンについて仲間とあーだこーだ言いあうこと、研究計画書という設計図を書いていくこと、一つ一つのデータの粒が一つの情報になっていく様を眺めること、SPSSが自分の意図とは大きく異なる結果をはじき出したときに「なんじゃこれ!?」と愕然とすること。これらの一つ一つのプロセスが私にとってはたまらない快感なのだと思います。Propensity Score Matchingとか時系列モデルとかの発注がかかった際に、はていったいどうやるんだろうといろいろ本を読んで、それが実際にできる時の快感のようなものが続いているからこそ、私は倫理やコミュニケーションに関する(自分的ずっきゅん領域の)リサーチ以外にも今でも手を染めているのだと思います。

 実際の臨床研究で一番大変なのは事務局機能とデータマネジメントです。特に多施設前向きコホートとか介入研究とかは、もう事務局が死ぬほど大変で、こんなもん臨床医に片手間にやらせていいわけないじゃん、と思ったりもします。さらに、プロトコル書きにしてもデータマネジメントにしても有害事象報告管理にしても、実務上の細かいスキルが必要になります。なので、リサーチのスキルを身に着けた人間は、人生でピアレビュージャーナルに一度だけ論文書いて記念写真みたいなことをやるのは極めて能率が悪いです。継続的に研究に関わっていただかなくてはならんです。その上で必要なのは「研究が好き!」という無邪気な心なのだと思います。

 一方、研究者は基本的にマッドです。暴走します。「巨人の肩の上に乗る」というのは基本暴走です。そして、研究者の暴走は被験者に明確に有害です。一人で研究活動にコミットしていくと多くの場合「アカンやろ」ということになったりします。そして、基本構造としてマッドな研究者の暴走を止めるのがIRBだと私は思っています。ただ、研究計画書を綿密に書いた上に「そもそもみとめられん」みたいな話になるとさすがにつらいので、IRBの目で研究仮説生成の段階からピアレビューを行う文化というのがあるとよいですが、これが難しいですね。

 ところで、研究なんかできなくてもいい医療者にはなれますが、新しい治療法の有効性仮説検証”以外”の優れた臨床研究は優れた臨床家の関与があってこそできるという一面があります。なぜ優れた臨床家の関与がないとよい研究ができないかというと、優れた臨床家でないと重要なリサーチクエスチョンを生み出すことができないからです。特定の薬やその他の開発された医療技術の有効性に関する仮説検証はまあ何とかなります(それでも、アウトカムの設定とかはやはり優秀な臨床家の関与が望ましいです)。しかし、例えばdisease prediction ruleのような、臨床に深く直結するようなテーマでのリサーチクエスチョンについては、日々の臨床における優れた洞察力が必要になります。優れた臨床家が行っている優れた臨床判断を仮説として成立させる上では、常にその臨床判断に疑問を持っている必要があるのです。

 自らの臨床を常に振り返り、自らが「正しい」と信じていることをあえて疑い、「本当に私が今なんとなく正しいと思いながら下した判断は正しいのだろうか?」と自らに問い続けること、もう一つは「私が医療者として行っているこの行いは、いったい患者の人生の何の側面に利益をもたらしているのだろう?」と問い続けること。これによって優れたリサーチクエスチョンは誕生します。このような臨床家としてのマインドは、私は研究に携わろうが携わらなまいが必要だと思っていますし、臨床だけをやっていても身についてくるものです。一方、実は私は臨床家としてのこのようなマインドを、臨床研究という活動に接し続けたことで獲得したと自分では考えています。おそらく、一回研究にコミットしただけではこのようなマインドが育つという実感はわかないかと思います。むしろEBMの実践(これは臨床そのもの)を日々繰り返していることのほうが身につくでしょう。ただ、私はリサーチ(これは、質的研究へのコミットも大きかったです)活動を通して、患者さんの一つ一つの言葉を「データ」としてとらえたり、患者さんからいわれた「先生、ありがとう」という言葉を「アウトカム」としてとらえたりしながら、自分の臨床は、自分の判断は本当にイケているのだろうか、と自らに問うことができるようになりました。

 もし「リサーチマインド」というものが臨床家にとって必要なのだとしたら、それは自らの手でエビデンスを作ろうと考える野心ではなく、自分の日常を疑う謙虚さなのだと思います。それは、臨床家に必要なマインドだと私は思います。このマインドは、臨床だけやってても育まれます。ただ、研究活動を人生の記念にではなく、継続的に続けていくことで、別の道を通じて到達することもあるのだろうとは思っています。

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