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あの日から20年。。。

こんにちは。前の投稿から大分時間が経ってしまいました。

初めてニューヨークに行った年、私は2001年9月1日にJFKに立っていました。ワクワクや不安を抱え、希望に心を膨らませていました。すでにニューヨークに住んでいた友人にアパートを手配してもらい、始めた新しい生活。すべてがキラキラして楽しいはずが、私はすぐにホームシックにかかり、日本に帰りたくてたまりませんでした。

新しいアパートはクイーンズのエルムハースト、ルームメートは中国人で英語を話しませんでした。(母国語だけで生きていけるってすごいよね!!??)リビングから聞こえる中国語、誰も知らない街、あ、私ってまだ準備できなかったのかもしれない、そう思いました。

それでもせっかく来たのだから意味を持たないといけないんだ、そう言い聞かせて、新しいものを少しでもみようとしていたと思います。そんな時、9月9日にタイムズスクエアでの置き引き事件!やっぱり気持ちがついていっていないと運も落ちるのかなあ、私は全財産をなくし、クレジットカード、家の鍵、お気にいりの服、そしてなんとパスポートもなくしてしまいました。泣きたいって本当にこのこと。もう私は帰るって決めました。この事件に背中を押してもらったような感じ。この街は今の私にはダメなんだー!という暗示がかかっていました(笑)

なんとか友人の力を借りて、9月10日には日本領事館へ行って一時パスポートを出してもらい(日本の両親に電話して日本人であることの証明を取るんです。それ以外日本人の証明ができないから。)、いろんな障害をクリアして(急に生活を引き上げるって大変)9月11日の朝の8時には私は再びJFKに立っていました。そうです。2001年9月11日。

私が利用したのはANA。カウンターで荷物をあづけ、チェックイン完了。あとはゲートへ行くだけ、と言うその時、みんなが窓にへばりついている。JFKの大きな窓の向こうにはマンハッタンが見える。そこに目立って見えているタワーから煙が出ていました。一つのタワーから煙、「なに、火事?なに?」「いや、なんかセスナかなんかがぶつかったみたい」「ええ?怖い」

そんな会話を交わしていたら、またもう一つの物体がまたタワーにぶつかっていくのが見えました。黙々と上がる煙。そこにいたみんなが無言になりました。「今の見えた?何が起こったの?」みんなざわざわするだけで何も情報が入ってこない。でもここにいる私たちには関係のないことのように思っていました。まあ関係ないか、私はもう日本に帰るんだ。そう私は決めていたし、チェックインも済ませていたし、遠いところで起こっている出来事、そう思っていました。

でもね、ちっともゲート案内が出ない。カウンターに聞いても、もう少し待ってくださいって言うだけで、みんな何もわからない。そうしていたら、少しずつ、これはテロかもしれない、という情報が入ってくるようになりました。あの時スマホってあったのかな?私は電話もスマホも何も持っていない、きっとガラケーの時代。友人もガラケーだったんだろうな。

少しすると、他の航空会社の便がどんどんキャンセルされて、みんな乗る予定だった人は近くのホテルへ送られていったんです。私は、というと、なんだか対応が遅いANA、いまだにキャンセルとも言わず、なんとその場で機内色をみんなに振る舞う始末。なんで!?なんで空港で機内食を食べているんだろう?

カウンターでは、ツインタワーで働く家族を思い、泣き出す職員の方もいて、その場はなんとも言えない冷たい重い空気、ホテルもすでにいっぱいで、この待っている人たちをどうしたらいいのか、航空会社もテンパっていました。すると、急に「あっちに向かって歩いていってください!」と誘導され、みんなが移動。歩いていくと、そこはBaggege Claim、あれ、ここって後戻りできない場所では?後ろを見ても誰もいない、みんな職員が逃げてしまっていない。「テロの可能性があるので、空港もターゲットになっている。すぐに逃げて!」と言われ、空港から追い出されました。



あれ??



ここは??



空港の外には、弱みにつけ込み、バカ高い値段で自分のタクシーに乗ってもらおうとたかる金の亡者たちで溢れ返っていました。さっきまでこの国を出ようとしていた私たち、現金なんか持っているわけないのに。それでもどうしようもなく乗っていく人たちを見て、なんだか悲しい気持ち。

荷物を預けてしまった私は、何もない。お金もない。もちろんクレジットカードも例の事件で無くしているし、本当に無力。運よく正直者のタクシーのうんちゃんを捕まえ、ありがたき友人の家に向かったのでした。

ただでは帰してもらえないのね。。。こんなに日本に帰りたいって思ったことはない。

こうしている間にもマンハッタンで何が起こっているのかは知るよしもなく、日本で心配している両親にも、まあ電話は朝が開けてからじゃないとな、遅いしな、と思うほど、現場ののんきな私でした。何も知らないって怖い。

いつまでたっても閉鎖された空港、飛行機がいない空港、毎日毎日、私は日本に帰りたい帰りたいで過ごすことになります。あの後すぐ、実は日本人が起こした事件ではないかっていう噂も立って、なんだか生きた心地がしませんでした。

数日後の臨時便で帰ることにはなるのですが、それまでは毎日がジェットコースターみたいに精神的にアップダウンしながら過ごしました。

今でも、あの時の、全ての奇跡のような偶然が重なって、無事に日本にも帰れたし、やはり縁があったこそ、その一年後にまたニューヨークに向かうことになったんだろうなあって思う。


9.11


私の人生において、とても特別な数字。たくさんのエネルギーが詰まった数字。たくさんの人々の忘れられない日。私も忘れない。

愛する人がここにいるって当たり前ではないっていうこと、心に留めて今日も頑張ろうーー。



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