見出し画像

淡々と。

 注射が痛い、と子どもの頃はいいたくなかった。
 痛くないふりをして、平気なふりをして、「注射が好き」などいっていたりした。今思うと、少し生意気な子だった。ほんとうは、注射は怖かった。すぐ先に必ず体験する痛みを、怖がらない子どもはいない。私は、痛くない、といえる強い子でありたい、そう思って我慢をして注射を受けていた。
 それから、母は、周りのひとは、私を誤解するようになったのだと思う。この子は、淡々としているのよー、と、母は知り合いのおばさんにいうことが多くあった。私は、淡々としていたかった。でも、していたい、と思っている時点でそうじゃないのだ。ほんとうは、感情的な、子どもだった。
 少し大人になってから、感情をうまく扱えなくなった。
 とくに「怒り」に関しては、どう表現したらいいのかわからず、適切でないやり方で表すようになった。
 母や父を困らせてばかりいた。
 心療内科から、精神病院へと移った。様々な病名をいわれたけれど、ぴったりあてはまるものはない。今も一応病名をつけられてはいるものの、典型的なそれとは違うので、自分の病をどう説明したらいいのかわからない。
 そして、大人になってから、それまでの「淡々としていた私」というものは偽りなのだと、はっきり自覚するようになった。
 体調が悪いとき、私はどこか人間でないものになったかのように感じるときがある。もっと理性を欠いた生き物。でも、人間の形をしているもの。好きな作家さんの書く小説には、そういう生き物がたびたび登場する。それを読むたび、「私と似ている」と感じることはよくある。 
 人間ではないものになってしまった私は、それでも人間と、どこか「通じて」いたいと思っている。思うよりも願う、のほうが強いのかもしれない。人間からはみでてしまっている自覚があるので、ひととの会話に合わせることに、神経を使う。変なことをいっていないかしら。このひとはなにをいいたいのだろう。表面に飛び交っている情報よりも、その情報を発信する意図や、言葉を受けとったときの相手の気持ちを、考えてしまう。
 そんなふうに、思考を複雑にしていると、会話がかみあわなくなる。質問に、質問の答えとして、返せなくなる。といったようなジレンマに陥る。しかたなく、私はひっそりと口をつぐむしかなくなる。
 すごく生きづらい。ひとがいるこの世界のなかで。ごちゃごちゃ考えて、考えつくしている。傷つくことが増えたのは、相手の気持ちを、必要以上に読もうとした結果なのかもしれない。大人になった私は、最近、「繊細」「傷つきやすい」とよくいわれるようになった。淡々としていたかった、子どもの頃の自分とは違う、大人になってしまった。
 ほんとうは、ぜんぜん、淡々としていなかった。
 そういえば、あの頃も、たくさん傷ついていた。傷つくことが、あたり前なのだ、と考えのうえでは強がりながら、心のなかで憤ったり、泣いたりしていた。
 でも、今は、そんな自分でもいい、と思っている。
 生きづらいけれど、そういう部分があるからこそ、私は書くことをやめないのだろう、から。 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?