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アルバイトの思い出~レンタルビデオ店編~

※写真=新たなバイト先へ向かう直前の早朝5:00過ぎ。日の出を迎える澄んだ空気が心地よい

 6日連続の大掃除と並行して、スーパーマンに返り咲きを果たしました。といっても、「鳥だ」「飛行機だ」のアレではもちろんありません。それこそ読んで字の如し、「スーパーで働くおっさんアルバイト」です。

 1999年以来24年ぶりの復帰となります。しかも、当時の会社は紆余曲折があって、いわば吸収された形。もちろん社名は変わっておりますが、業務・職種は前回アルバイトしていたとき(30手前、妻子あり、でしたが)と全く同じ。専門誌『ワールド・ボクシング』の編集記者となる直前の1年間、お世話になっていた場所──ということで、「初心に帰る」「原点に戻る」という決意を表すには最もふさわしい……と自負しております。

 アルバイト。この響きを頭で繰り返していたら、これまでしてきたことが走馬灯のように甦ってきました。今回は、人生初のアルバイト先、大学時代のビデオレンタル店の話を書かせていただきます。

 大学2年が転機でした。2、3年生は、当時できたばかりの新しいキャンパスに通う義務。1、4年が通う本キャンパスは、「若者の街」として人気爆発だった場所にあってどうにもイケすかず、そこを離れられるのは大変嬉しかった(そもそも受験もここで行なったので、「若者の街」にメインキャンパスがあることすら知らなかった)けれど、実家からはかなり遠く離れてしまう……というちょっとした悩みを抱えたのです。

「ただでさえ池袋途中下車パターン(映画観て帰るとか)ばかりだったのに、このままではさらに学校に行かなくなる」ということで、「近い」「公園を走りたい」というふたつの理由で駒沢に住むことを決めたのです(ちなみに母校は『駒澤大学』ではありません)。そして、周辺散策とばかりに三軒茶屋へ向かって歩いていたときに、偶然見つけたお店に飛びついたという次第でした。

 何が良いって、店にあるビデオを観放題できること。購入促進のためにビデオ販売会社から送られてくるサンプル(といっても画面隅に小さく「SAMPLE」の文字が入ってるだけで中身は一緒)を、発売前にひと足早く観られるのも素晴らしかった。マドンナが主演した『BODY/ボディ』なんて、サンプルを独占状態。バイトを辞めた後になって返却しそこねたことに気づき、「いまさら返しに行くのもなぁ」と諦めて、引っ越すたびに持ち歩いてきたのでした(探せば今の家にもあるかも)。

 観る映画の趣味が変わったのもこのお店のおかげだったと、今になって気づかされます。店長に薦められて観たジャン=リュック・ゴダール監督の『気狂いピエロ』は衝撃的だった。そもそも「き〇がい」と読むことすらわからなかったし。
 ジム・ジャームッシュの虜になったのもここで。まさか30年経った今に至り、彼が、彼の作品がこんなに愛おしい存在になるとは、当時は思いもしませんでした。
 もちろんAVも借りまくりました。が、「1泊2日で」5本も6本も借りていく常連のおじいちゃんには白旗レベルです。

 店内に常に流す有線放送も魅力的でした。中高と洋楽、ハードロックオンリーだった自分が、『J-POP』なるものを初めて聴いたのも有線で。半ば強制的に聴くハメとなっていて、当時は苦痛以外の何物でもありませんでした。だから、深夜帯に自分独りシフトになったときは、「ローリングストーンズ・チャンネル」や「ブルース・チャンネル」にすかさず変えてました。

 けれども今、このお店を思い出すと、頭の中に流れてくるのはclassの『夏の日の1993』です。有線でそれほどヘビーローテーションされていたということですが、何だかめちゃめちゃ青かったあの頃の自分にぴったりの、甘ったるい曲だったなぁと、いまや50過ぎとなったおっさんは目を瞑っては浸るのです。
 それに、「1993年」といえば井上尚弥、京口紘人、谷口将隆たちが生まれた年(谷口は94年1月だけど)。「ああ、オレがあんなことをしてたときに、彼らは誕生したんだなぁ」と、妙な感慨にも耽るのでした。

 しかし、最も忘れられない出来事は「開店以来初の事件」です。まだ入って日も浅い頃、初めて1人で閉店業務までこなすことになり、店の上に住む店長が指導がてら付き合ってくれたときのことでした。
 一連の作業を店長がやって示してくれ、閉店からおよそ2時間が経過。さあ、ようやく業務終了の段となり、地下フロアの電気を消しに行った店長が階下から「上の電気も消して!」と叫んだときのことです。
 電源のスイッチがどこにあるかわからず、「これかな」と思いきりレバーを下げた途端、店内が全て真っ暗に……。

「おい! 何やってんだよ!! それはブレーカーだろ!!!」

 真っ暗闇の中、なぜか脱兎のごとく駆け上がってきた店長に大声で怒鳴られて「すみません!」の連呼平謝り。しかし、「こんなことしたやつ、店始まって以来初めてだよ!」の言葉には、真っ暗をいいことに舌を出してしまいました。

 有線で5分前から『蛍の光』を流し、深夜2:00に閉店。ここから“〆の作業”、レジ締め、業務レポートのプリントアウト、清掃……と続きます。PC普及前、今のように性能の優れたプリンターでなくタイプライターのような時代のこと。膨大なレポートをプリントアウトするのに数時間を要すため、その間にフロアを入念に掃除する。それはたいして苦痛ではないのですが、階下のAVフロアに向かうのがドキドキでした。というのも、使用済みティッシュがちょいちょい落ちていたからです。「世の中には特殊な癖を持つ人がたくさんいるんだなぁ」とくっきりと認識した事象でした。

 夕方6:00から入り閉店まで。店を出るのは早朝4:00過ぎ。そこから歩いて帰宅して、ひと休みしてから5:00に家を出て、すぐ近くにある駒沢公園へ走りに行く……その繰り返し、これが日課でした。
 ブレーカーを落とすことは2度とありませんでした。後日、「もう、あれ以来ブレーカーは切ってませんよ」と店長に得意げに話したら、「当たり前だバカヤロー!」ってビートたけしのような口調で怒られました。K店長、その節は本当に申し訳ありませんでした。

 毎朝、駒沢公園に走りに行くときの楽しみは、ヨネクラ軍団に会えることでした。“ヒーロー”大橋秀行が引退し、川島郭志、松本好二たちの世代に変わり、同年代の選手たちが頑張る姿を、走りながら(走っているフリをしながら)横目で見る。「オレも頑張ろう! 早く記者になって彼らを取材したい!」とモチベーションを高めていました。彼らを現役時代に取材することこそ叶いませんでしたが、後年、大橋会長をはじめ、みなさんを取材したり普通に話したりすることができるようになったのは、本当に夢のようなことなのです。
 そして、軍団を率いる米倉健司会長の笑顔も忘れられません。いつも、おそるおそる「おはようございます」と挨拶をすると、「はい、おはよう!」ってニコニコしながら毎度返してくれたのでした。やはり後年、ヨネクラジムに取材に伺った際は、会長の笑顔にほんのちょっぴり、取材前の緊張を和らげていただきました。
 あのときのガキがこの小僧だとは、会長はきっと夢にも思っていなかったでしょう。

 三茶に程近い店舗だったため、著名人もちょくちょく来店していました。印象的だったのは柴俊夫さんと飯島直子さん。柴さんはとにかく明るくて気さくで、めちゃめちゃ感じの良い方でした。飯島さんは、テレビで観ている印象と変わらずちょっぴり天然さんで、でも全然気取りのない自然体で、とにかく綺麗でかわいくて素敵でした。
 たんなる接客で、ほんの短い関わりしかありませんが、それでも一般人のこちらとしては、30年経った今でも、そのときのやり取りはくっきりと残っているもの。もちろん柴さん、飯島さんのことはずっと陰ながら応援しています。先方からすれば何でもない出来事ですが、当方からすれば、それくらい印象に残る“接触”。だからこそ、自分も気をつけねばと、あらためて自分に念押しをした思い出です。

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