ボクシングの深みを教えてくれたトレーナーの言葉。2002年の3試合が“始まり”だった【後編】

 山田武士トレーナーと福島学。師弟がオスカー・ラリオス(メキシコ)を攻略するにあたり“キー”と考え、磨き抜いてきたパターンのひとつが「急激に鋭くステップインしての速いワンツー」だった。
 そこに至るまでのわずか1分。福島は、ややゆったりしたリズムを作っていたが、それは、“この一瞬”を生かすために敢えてそうしていたもの。そしてラリオスは、その福島のリズムに食いついてもいた。
 が、瞬時にして福島がスローテンポを打ち壊した瞬間、ラリオスは、福島がそうしてくるのをまるで予期していたかのように対応した。
 ひょっとしたら、「よけることだけ」だったらできるかもしれない。けれども、そうしながら左フックをどんぴしゃのタイミングで合わせてきた──これは、20年の時を経た今見ても、寒気がすると同時に痺れるシーンだ。

「あれでガタガタにされちゃったな」

 一聴すると辛辣な三浦利美会長のひと言は、その瞬間だけを切り取って表現したものでなく、この師弟が積み重ねてきた日々をも慮っての言葉だったのだろう。おそらく山田トレーナーはそこまでを読み取った上で感嘆の声をあげたのだ。

 それにしても、こんな一介の若輩記者に、極めて貴重なやり取りを話してくれた山田さんには、感謝の念しか思い浮かばない。自分の中に眠っていた「気骨」を奮い立たされた瞬間とともに、ボクシングの表層だけでなく、「見えないものの大切さ」を呼び覚まされた。武道経験の中で得た「対面競技の感覚」をガツンと思い出させてくれたのだ。

 そしてそんな折、図らずも時を同じくし、また別の側面から大きな刺激を与えてくれた人がいる。それがヨネクラジムのトレーナーだった皿田学(さらた・まなぶ)さんである。

 ラリオスvs.福島戦からわずか2週間後の2002年9月7日。後楽園ホールでは日本フライ級タイトルマッチが行われていた。チャンピオンはトラッシュ中沼(国際)。前出の三浦さんが育てた選手である。そして、皿田さんは挑戦者、北野良のセコンドに就いていた。

 かつて高校選抜大会を制している北野は、双子の弟・隼(じゅん)共々、アマチュア出身らしく実に正統なスタイルの持ち主。だが、“天才”の呼び声高い中沼が、強打と鉄壁のブロッキングで凌駕していく。北野は意地と気迫で辛くも耐えしのぐラウンドが続いた。
 そうして迎えた6ラウンド。鋭いワンツーをヒットした中沼が、1拍“タメ”を作って放った右アッパーが、北野の闘志を削り取って試合は終わった。

 試合後、控室通路で皿田さんと向かい合った。日頃から明るく豪快に振る舞う皿田さんは、さすがにいつものテンションではなかったものの、うっすらと笑みを浮かべながら「しかたないっス」と、沈黙したまま佇むだけの当方へ語りかけてくれた。
 何か口を開かなければ。でも、思うように言葉が浮かんでこない。そんな自分を察したのか、皿田さんは急にキリッと目を見開いて、真顔になってつぶやいた。

「最後のアッパー。あれ、ストレートが来るって北野は思ったそうです。その直前のもそうだし、それまでのストレートと同じタイミングと打ち出し」

 ガツンと頭を殴られたような衝撃を受けた。基本的に、第三者は、向かい合う両選手を“横並び”で見る。だから、彼らに見えているものと、われわれが目にするものは当然異なる。そこをなぜ、もっと意識して見てこれなかったのか……。

 自分自身、対面競技をやっていたからこそ、そこを想像し、ビジョン化できる能力を手に入れたい──。山田さんから受けた刺激を、さらに昂らせてくれるひと言だった。

 そして、それからひと月後の2002年10月10日。ラリオスvs.福島が行われたのと同じ両国国技館で、WBA世界ミドル級タイトルマッチが行われた。チャンピオンはウィリアム・ジョッピー(アメリカ)。挑戦者は保住直孝。ご存じのとおり、皿田さんが金山利治(のちのクレイジー・キム)とともに寄り添う選手。同級生トリオである。

 保住も、北野が中沼にやられたようにジョッピーに翻弄されていった。打ってはゴムまりのように跳んで行ってしまうジョッピーの老獪さに、逆転の目はどんどん摘まれていった。しかし、保住の迫力だけは最後まで失われなかった。それでも10ラウンド。右アッパーをまともに浴びせたジョッピーの連打が始まると、常に一方的な展開だった試合をレフェリーがストップしたのだった。

「ジョッピーのアッパー。あれもそうですよ」

 試合後、皿田さんはそう語りかけてきた。ひと月前の出来事が、記者の中にくっきりとインプットされていることを予測し、あえて余計な言葉を省略してくれたのだろう。ジョッピーvs.保住戦は、『ワールド・ボクシング』編集記者になって、初めて担当した世界タイトルマッチの記事だった。そういった意味でも、非常に思い入れの深い記憶である。

 ボクシングの奥深さに憑りつかれたものの、目の前に次々と現れる日々の仕事に追われる毎日だった。ようやくほんの少しばかり本腰を入れられるようになったのは、『ワールド』を辞し、3年過ごした九州から出戻って、『ボクシング・マガジン』に拾ってもらってから10年ばかり経った頃のことだろうか。たまたま目にしたテレビ番組が、想いを再燃させてくれた。

 それは、中村俊輔の言葉だった。日本サッカー界にその名を刻まれる彼は、フリーキックの名手という面もさることながら、司令塔としての能力がずば抜けていたという(一時期サッカーの仕事にも携わったが、いまだ理解できているとは言い難い)。何の気なく観だした番組だったが、彼が発した言葉に稲妻が走った。

「自分がボールを持っているとき、平面でなく、俯瞰して真上からピッチの全体が見えるんです」

 仲間の位置、相手の位置。すべての位置関係や間合いを、上から見下ろすビジョンを描いて瞬時に把握できる。だから、パスの出しどころを迷いなく決定できるのだ、と。
 にわかに信じがたかったが、それほどの特殊能力がなければ、あれほどの活躍はできないだろうと思い直した。と同時に、沸々と湧き上がるものを感じたのだ。

 選手と一介の記者。そこにはどうあがいても、到底追いつけないくらい深くて遠い溝がある。けれども、「そんな才能のかけらもないし、ただの記者だけど、そんなふうになってボクシングを見られるようになったら素晴らしいなぁ」と。たんなる憧れと希望。でも、自分にとっては素敵な出会いの瞬間だった。

 山田武士、皿田学・両トレーナーの言葉が、記者として生きてき、今これから(どのように進んでいくかわからないが)たとえ靄に囲まれたとしても一筋の光を常に照らしてくれる指針となっている。
 そして、中村俊輔の言葉は「ボクシングを見ることを全うする」、その想いをさらに強固にしてくれたのだった。

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