見出し画像

要注意:安易な学びを重ねても成功に近づかない理由

言葉には、複数の解釈が存在することがある。

例えば、

「哲学」

己の信念を貫く意味で使われることがある。

事象を否定しながら、次元を上昇させる思考法としても使われることがある。

同じ言葉を使っていても、意味が違うことは少なくない。

意味の違いが生まれる理由は、人から人へと伝わる間に、取り違いが起こるためだ。笑って済む話ならいいのだが、学びの場に間違いが用いられると、厄介なことになる。

「情けは人の為ならず」とは、「人に親切にすれば、その相手のためになるだけでなく、やがてはよい報いとなって自分にもどってくる」という意味だ。

しかし、誤って、「親切にするのはその人のためにならない」と捉えている人も多い。

文化庁が発表した「国語に関する世論調査」では、約半数が逆の理解をしていたというデータもある。解釈の違いで、人に親切にしない人が増えると恐ろしい社会になってしまう。

他にも「なぜ、善人よりも悪人なのか?」という問いがある。

これは、【歎異抄をひらく】(高森 顕徹著)の広告に使われているコピーだ。
コピーだけを読むと、善人よりも悪人のほうがいいと連想できる。

「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」がその一文で、本書の中にも、「阿弥陀さまは、悪人大好き仏だから、悪をするほどよいのだ」と吹聴する者が現れたとある。

阿弥陀様が悪事をすすめるわけはない。では、「善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」とはどういう意味か。

本書の解説によると【歎異抄】でいう悪人とは、阿弥陀仏に悪人と見抜かれた人のことを言う。人は誰でも煩悩を持っているのだから、悪人とは人類のことを指す。つまり、全員が悪人だということだ。善人とは、善に励めば救われると考えるような奢った人のことを言う。

つまり、奢った人ですら、阿弥陀さまは救うのだから、自らの煩悩に気づいた人が救われないことはないというのが誠の解釈のようだ。悪人の方が良いという話ではないが、このような誤解は多い。

例えば、「あなたはオンリーワンの存在です。」という話に対して、「今のままの自分でいい」と解釈する人は少なくない。ここまではいいのだが、「今までがんばりすぎていたから、もうがんばらなくてもいいんだ」というのは解釈が飛躍している。

メンタルコーチの田中ウルヴェ京さんも著書の中で、他人との比較は必要ないが、本来の自分像と今の自分を比較して、自分を磨き上げることの大切さを説いている。

「嫌われる勇気」は嫌われることを推奨しているわけではない。

こうした誤解の元に成功法則を実践してしまうと、成功と逆に方向に進んでいることになる。

こうした誤解が多いのは、成功に関する本の内容が薄まっているからだ。
成功に関する書籍の原著の多くは、分厚く、情報量が多い。これは、欧米の書籍に限らず、日本の書籍にも共通する。それだけ成功に関する考えは、奥深く、簡潔にすると【歎異抄】のような誤解を産むからだろう。
こうした本は、昨今の出版業界の流れに反する。実際、「だけ」「はじめての」「ずぼら」などのタイトルをつけると本は売れやすい。また、薄くてイラストが多用されていると読みやすいと考えられている。他にも、漫画になるなど、わかりやすさが重視される。

また、物理学の専門家でもない人が物理学と宇宙意識についてのセミナーを開催していることもある。特に量子論は専門家の間でも議論は分かれている。
特にこうした潮流やセミナーを批判しているわけではない。受け取る方(読者、受講者)がよい方向に進めばいい。しかし、思うような成功に進んでいない場合、理解が法則に反していることがあるかもしれない。

また、歴史に学ぶという考え方にも危険性はある。
歴史は歴史家によって編纂されたもので、そのものの事実かどうかはわからない。もちろん、事実を裏つける研究は行われているが、研究対象は書物だ。

一般の人の意識に浸透するのは最も優れたストーリーだ。

ダンカン・ワッツは、【偶然の科学】の中で、「歴史は一度しか起こらない」と言っている。確かに、似たような事態は起こっているものの、条件は同じではない。だから、歴史を実験にすることはできないというのがワッツの主張になる。

戦国武将の考えに学ぶ際も、多くは司馬遼太郎さんの司馬史観が事実にようになっている。司馬遼太郎さんは小説家であることを忘れてはいけない。

もちろん、歴史に学ぶことがないとは思わない。私たちの人生において有用な考え方や行動指針を手に入れることも多い。ただし、それらは再現性のある法則でない可能性がある。実際、小国が大国に勝った戦の方法は、奇襲戦法、密約、だまし討ちなど、現在では使うことのできない手段も少なくない。結果からの推測は法則ではなく、偶然の産物かもしれない。

とかく人間は自分に都合のいい解釈をするし、出来事や歴史に意味づけをするのが好きな生き物のようだ。

学びとは、何を学ぶのかを選択するところから始まっている。

ので、人にすすめられた学びは多くの場合、自分が望む成功から遠ざかることは少なくない。

何かを学んでも、進んでいる方向に違和感があれば、立ち止まり、哲学的思考を試みることをおすすめしたい。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?