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「福岡市を経営する」

ガッキーです。

今日は
「福岡市を経営する」という本の紹介です。
著者は高島宗一郎福岡市長です。
九州朝日放送のアナウンサーを経て
36歳の若さで市長になった高島さん。
発展著しい福岡市をどうやって作って
きたのかを書いている本ですが、
「日本で初めて〇〇をした」
「日本で1番の〇〇を作った」
「日本で最初に〇〇になった」
というような表現が多く、
アグレッシブに改革と発展を行なってきた
市長です。

細かな内容は本を読んで頂きたいのですが、
僕が個人的に感動した、最終の6章部分を
書き起こしさせて頂きます。
絶対読んでください!

第6章 覚悟
〜キャリアと死生観、自分の命の使い方〜

『たったひとりの闘争』との出会い

私は、小さい頃からプロレスが大好きでした。学校てはいつもプロレスごっこ。
学校にラジカセを持って行き、入場テーマを
流して入場。自分が戦わないときは、
リングアナや実況役を務めていました。
高校時代に1冊の本に出会いました。
アントニオ猪木さんの
『たったひとの闘争』(集英社)という本です。
ちょうど湾岸戦争の最中に、当時、
参議院議員を務めていた
アントニオ猪木さんが、中東のイラクで
人質となった日本人を救出したときの
訪問記でした。最初は純粋にプロレスへの
関心から本を手に取ったのですが、
読み進めていくうちに、テレビの報道で
伝えられている中東の姿と、本の
内容が大きく異なることに疑問を
感じるようになりました。
またテレビ報道で見るような
悪の単純な構図では語れない
状況があるのもわかってきました。
そこで、自分でも中東問題について
勉強してみることにしました。
正直、高校時代はバンド活動に
のめり込んで学校の勉強は
ほとんどしていなかったのですが、
関心を持った中東問題に関しては、
さまざまな書籍を読み、
熱を入れて調べました。
父が、タイミングよく関連書籍を
買ってきてくれたことも、
興味を深めるきっかけになりました。
そうするうちに、マスコミへの
不信感が日に日に大きくなって
いったのです。
高校1年のある日、担任の先生から、
ホームルームの時間を使って
パレスチナ問題について
発表するよう言われました。
当時は湾岸戦争が連日報道されていた
頃です。私は、友人の名前を国や
国際機構の名前に当てはめた
オリジナルの教材を作り、
「世界一わかりやすいパレスチナ問題」
というテーマで授業をしました。
クラスメイトからは
「とてもよくわかった」と
たくさんの声をかけられ、
この経験はその後の私の大きな
自信になりました。
きっかけを作ってくれた
担任の竹尾栄一先生には、
本当に感謝しています。
大学に入学するとすぐに
「日本中東学生会議」という
サークルに携わりました。
夏の長期休暇を利用して、
日本の学生とエジプトや
イスラエル、パレスチナの学生と
ディスカッションやフィールド
トリップをしながら
友好を深める活動が中心です。
当時はまだ電子メールなども
一般的ではなかったので、
届くかどうか心配しながら
手紙を書き、エジプトやイスラエル
の学生とやりとりをしていました。
そこへブライ大学の教授などに
ご協力を頂きながら、1995年8月
には第1回日本イスラエル学生会議、
そして第2回日本エジプト学生会議
を開催したのです。

「国家」と「日本人」を強く意識するきっかけになった中東訪問

「抱いていたイメージとまったく違う」
それが、はじめて中東を訪れたときの
感想でした。
正直、どこか怖い印象を持っていたのですが、
実際に足を運んでみると、
現地の人たちは驚くほどにあたたかく
接していただいたのです。
そして、その理由は
「私が日本人であるから」ということ
に気づきました。
日本人だから信頼され、まわりから
愛され、歴史も経済も国際社会での
振る舞いも、さまざまな面が評価
されているということを
学生時代の旅で実感したのです。
「日露戦争で日本が勝利したのは
すばらしい。アジアの国が白人に
勝利して私たちも勇気をもらった」
「このコピー機は日本からの援助のおかげだ。他国は軍隊も一緒に入って資金を
狙ってくるが、日本は必要なお金だけ
出してくれるから本当の友人だ」
「ドラマの『おしん』が好きだ。
日本人は団結して中国にもロシアにも勝った。アメリカの卑怯な原爆で攻撃されたが、
今は経済でやり返していてすばらしい」
などなど。
誤解も多くありましたが、中東の各国で
まさかこんなに「日本のことが好き」
と言ってくれる人がいるとは
思ってもいませんでした。
しかも学校の授業でも聞いたことが
なかったような話を彼らのほうが
詳しく知っているのです。それなのに、
私は一方的に中東地域全体に怖い
イメージを抱き、誤解していたことを
心底恥ずかしく思いました。
イスラエル人が歴史的な苦難から
「国家」への思いを強くしたことは
いろいろな書籍や映画を通じて
知られています。
一方、学生時代に訪問した
パレスチナ自治区では、はじめて
「国を持たない人」に出会いました。
「国を持たない人」とは、
自国のパスポートがない人たちです。
私たち日本人は、あたりまえの
ようにパスポートを持ち、
海外に行けば「私は日本人です」
と自己紹介できます。海外からの
侵略や脅威からは自衛隊が守ってくれ、
治安は警察が守ってくれます。
パレスチナで出会ったのは、
そういった機能に守られていない
人たちでした。
治安を維持する警察機能は、自国民
ではなくイスラエルが担っています。
また国家がないので、国際社会では
あくまでオブザバーにすぎないのです。
過去に国を持たなかったイスラエルと、
今、国を持たないパレスチナという、
どちらも国を持たないことによる
不自由さや苦難を味わってきた
人たちと出会って、私は自分が
置かれている環境のありがたさを
再認識しました。
国家を守り、その国家の名誉を
高めてきた先人に、はじめて
関心を寄せることになったのです。
また、日本人はビザがなくても
入国できる国がトップクラスで多い
ということも知りました。
日本人が当たり前に取得する
パスポートは、先人たちが脈々と
築き上げてきた信頼に足る国づくり
の賜物なのです。そして私たちも
「誇るべき日本と、生まれ育った
ふるさとをもっと発展させるべく、
いつか自分も政治家として
働いてみたい」と強く思いました。
私の人生を決定づけたのが、
この学生時代のパレスチナ・イスラエル
訪問でした。

「選挙に強い政治家」という視点で考えたキャリア

国家を持たないパレスチナの
学生とかかわるなかで、
これまで意識したこともなかった
「国家」や「日本」について
考えるようになりました。
そして将来は「政治家になって
本や世界の発展に寄与する」
という目標を立てました。
もちろん政治家になるのは
手段ですから、日本をもっと
よくするための仕事は他にも
たくさんあります。しかし私は
学生時代のこの経験から、
未来の世代へよりよい国や地域
を残して命のバトンをつなぎたい
と思ったとき、人生の中で
一度は政治の仕事に携わりたい
と考えるようになったのです。
では、政治家になるためには
どうすればいいのでしょうか。
実際には議員秘書や行政職員
というキャリアを積んでから
議員などへ立候補する人が
多いのかもしれません。
少しでも実践経験を積み、
そこで作った人脈を頼りに
選挙に出るのです。しかし私は、
「選挙に強い政治家になる」
という視点からキャリアを
作ることにしました。
政治家になっても選挙に弱いと、
大きな組織票を持つと言われる
業界団体や政党、地元の有力者に
気を遣うことになります。
また選挙への不安から、地元の
祭りや運動会、地域の寄り合い
にとりあえず顔を出しておく
ということが優先され、
ほとんどの時間を「政治活動」
ではなく「選挙活動」に忙殺
される、という話を学生時代に
ある雑誌の記事で読んだのです。
選挙に強い政治家こそが、市民
のための政治、物事を前に進める
政治をすることができるという
内容に、私はとても心を
動かされました。よって私は、
「選挙に強い政治家」を
目指すことにしたのです。
そこで大学を卒業して目指した
職業は「アナウンサー」でした。
なぜ、アナウンサーだったのか?
アナウンサーは取材の過程で
さまざまな社会の現場に足を運び、
いろいろな立場の方から直接
話をうかがうことができます。
毎日が社会勉強です。
また、硬軟織り交ぜて情報を
自ら伝えられるという点で
大変やりがいのある仕事です。
くわえて記者とは違い、
自信の知名度も大きく上げることができます。
情熱を持って仕事ができて、
社会に関する知識増やすことが
でき、同時に顔を覚えてもらえる。
「ジバン、カンバン、カバン」が
ない私にとって、将来の選挙に
勝てるキャリアを構築するうえでも、
アナウンサーこそがもっとも
ふさわしいと考えたのです。
もちろん、私の父が大分で
アナウンサーをしていたという
ことも、私にとってこの職業を
身近に感じることができた
理由であったたと思います。

「才能」には限界があるが、「努力」ならいちばんになれる

そういうわけで
「アナウンサーになろう」と
決めたのですが、もちろん
簡単になれるものではありません。
専門の学校に行っていたわけでも
ありませんし、まったくの未経験分野
です。アナウンサーの試験は
数千人が受験して、合格するのは
東京でも男女2人ずつくらい。
とくに地方では派遣社員として
採用する割合も多く、正社員の採用は
1人くらいですから、相当な割合です。
私は、アナウンサーの受験を
決めてからは、誰よりも受験準備
のために時間をかけた自信があります。
それは私の「才能のなさ」の
裏返しでもありました。
「才能」には限界があります。でも、
「努力」であればいちばんになれます。
私は毎日「今日、努力した順位は
受験生の中で何番目だろう?」と
考えていました。毎晩、電気を消した
あと目を閉じてからこう思うのです。
「こうしている今も電気を消さずに
準備をしている受験生がいるのでは
ないか。そもそもこんなことを
ベッドの中で考えている自分が
いるということは、まだ余力が
あるのに、自分の意志で今日を
終わらせようとしているのではないか。
朝生まれてきた命を、自分の意志で
終わらせようとしているのではないか。
今日という一生は、本当に
悔いがないものなのか?」と。
そして、もう一度電気をつけて、
さまざまな想定問題をつくる作業や、
自己PRの内容をブラッシュアップする
作業をしました。
よってほぼ毎日、電気は点けたまま
机で寝ていました。膀胱炎にもなりました。
試験は放送局からの電話連絡を待つために、
電話線がちゃんとつながっているかを
1日に何度も受話器を上げて確認していました。
当時、テレビ番組の「サザエさん」の
エンディングで「じゃんけん」コーナー
がありました。
試験が終わったある日、偶然流れていた
番組を見ていると、なぜか頭の中に
もうひとの自分が現れて
「このじゃんけんに勝てば合格の
電話があるぞ」とささやくのです。
そして、「じゃんけんをせずに、
ここでチャンネルを変えたら
人生逃げたことになるぞ」と私を
追い詰めるのです。やるしかありません。
それはもう必死でした。あそこまで
鬼の形相でサザエさんとじゃんけんを
していた人は、日本中探しても
なかなかないかったのではないかと思います。
今考えれば、精神的にかなり自分で
自分を追い込んでいたのだと思います。
ただ、1000人、いや数千人の受験生の中で
1番と言えるほどの努力をしていなければ、
1人しか合格しない試験で合格できなくても
くやしがる権利はないと思っていたのです。
「才能」で言えば、私は勉強も運動も
得意ではありませんでした。
だからこそ、ここぞというときは、
他の人以上に努力しないと、同じだけの
結果すら得られないと知っていました。
もちろん健康に留意しながら毎日を
過ごすことは大切ですが、特別なものを
手に入れたいのであれば、逆立ちを
するような努力をするしかなかったのです。
「誰よりも努力する」「時間をかける」
という極めて単純な戦略意外に、
他の受験生に私が勝てる方法は
ありませんでした。

チャンスを逃さないための徹底的な準備

私はプロレスが好きで、子どもの頃から
プロレスごっこをしながら実況のマネごとを
していました。
当時の憧れの存在は古舘伊知郎さんでした。
いつからか、テレビで本物のプロレスの
実況をしてみたいと思うようになり、
小学校の卒業アルバムには将来の夢の欄に
「プロレスのアナウンサー」
と書いていました。
政治の世界を心に抱きつつ、放送局に
就職したのですが、小学校時代の夢を
思い出す瞬間が訪れました。
入社した年の秋、私の同期であるテレビ朝日の
勝田和宏アナウンサーが新日本プロレスの
中継番組「ワールドプロレスリング」の
実況をするため博多のプロレス会場に来ていたのです。
小学校の頃に憧れたあの実況席に、同期の
アナウンサーが座っているー。
その光景を見てから「夢がすぐ近くに
あるのに、つかまないわけにはいかない」
という思いになりました。
私はその翌日から、いつ実況の仕事が来ても
いいように準備を始めました
ちなみにプロレスの実況はテレビ朝日の
アナウンサーの仕事です。私のような
地方局のアナウンサーは、
そもそも前例がありません。
ただ
「10年後でもいいので、
一度きりでもいいので、
チャンスをつかみたい」
と思っていたのです。
まずは、スポーツ新聞のスクラップを
始めました。また、CSのプロレス専門
チャンネルを見ながら音を消して
実況の練習をしたり、
東京や大阪、札幌などで大きな
試合があるときは、
ほぼすべて会社に休暇申請をして、自費で
テレビ朝日の手伝いに行ったりしました。
航空券や宿泊などは自費なのでお金も
かかりましたが、「休暇に自費で」行動する
かぎり、誰に何を言われることもありません。
プロレスの手伝いは業務ではないので、
上司の判断で担当を外れることもなければ、
異動させられることもない。長期スパンで
好きなだけチャレンジできるのです。
東京など、各地の会場に行くときは、
いつでもすぐ実況ができるように
「実況ノート」を持ち歩いていました。
もしかしたら、実況担当のアナウンサーが
事故で急きょ来られなくなるかもしれない。
急に体調不良で実況できなくなる
かもしれない。そんなときに「私がやります」と言うためです。
もちろんそんなチャンスはほぼないと
思っていましたが、そもそもゼロからイチを
生むチャンスを狙っているわけです。
考えうることはなんでも想定して
準備していました。
そして1998年10月24日福岡国際センター。
まさかのそのチャンスが、
本当に訪れたのです。
新日本プロレス福岡大会の当日、来場する
予定だった実況担当のアナウンサーが、
前日の高校野球が雨で順延になったため、
そちらの実況を優先するために
来られなくなったというのです。
試合開始直前の福岡国際センターの
テレビ朝日控室で、ふと番組プロデューサーが
私の顔を見て言いました。
「あれ?お前、実況してみたいって
 言ってなかったっけ?」
そこで私はカバンに入れていたプロレス
記事のスクラップや準備していたノートを
ドサッと机の上に出し、「できます!」と
答えました。ついに夢の扉が開き、はじめて
夢の実況席につくことができたのです。
そこからおよそ1時間、試合開始ギリギリ
まで準備をし、たくさんのお客さんで
埋まった福岡国際センターの花道を通って
実況席に向う私は、もしかするとレスラー
より気合が入っていたかもしれません。
小学生時代からの夢を叶えた瞬間ですから、
リングの前でヘッドホンとマイクが
一体となった実況用の「ヘッドセットを
つけたときの感動はいまでも
忘れられません。
また、後日に聞いた話ですが、
このようにスムーズに事が進んだのは、
実は私が地道に準備をしていることを
見てくれていた会社のスポーツ部の
先輩や「ワールドプロレスリング」の
海谷善之さんには本当に感謝しています。
結局その日は2試合を担当させていただき、
これがきっかけでボランティアにも
かかわらず、他の会場でも少しずつ
実況やリポートをさせていただけるように
なりました。
数年後にはテレビ朝日から正式に仕事として
福岡の放送局に発注をいただき、
後楽園ホール、大阪ドーム、札幌ドーム、
両国国技館など、全国の会場で実況や
リポートをしました。最終的には
東京ドームでの夢の「IWGPタッグ選手権」
の実況も全国中継で担当しました。
チャンスはいつやって来るのかわかりません。
それでも、いつそのときが来てもいいように
緊張感をもって準備しておくことが大切です。
チャンスはいつも突然訪れます。
そのときにチャンスをチャンスとわかる人と
わからない人、わかってもそれを
つかめる人と逃す人がいます。
私の場合、突然訪れた実況のチャンスのとき、
もし、準備不足で結果が悪ければ、二度と
声はかからなかったことでしょう。
この経験は、私に「絶対的な準備」と
「チャンスを逃さない緊張感」がいかに
大切かを教えてくれました。そして、
見えないところでそっと後押しをして
くださった諸先輩方には、
感謝の気持ちでいっぱいです。

明日死ぬかのように今日を生きる

私が大切にしている言葉が
「一日一生」というものです。
朝起きたときに生まれて、夜寝るときに死ぬ。
もう起きてこないかもしれない。
1日を一生と捉えなさい、という言葉です。
1日を一生の縮図と考えると、たとえば
2時間ご飯を食べ、6時間遊び、8時間仕事を
して、8時間寝るとします。これを
同じように毎日続ければ、一生のあいだに
使った時間の割合と変わらなくなる。
「何に時間を使ったか」の割合は、
1日も一生も同じものになるのです。
つまり、一生は1日の生き方の
積み重ねなわけです。
10年で何かを成し遂げようと思ったら、
1日の使い方から変えないといけない。
1日の過ごし方とまったく同じことが
10年間繰り返されるだけだからです。
「明日死ぬかのように今日生きる」
という言葉も大きく影響を受けた言葉です。
明日が今日と同じように来るとは誰も
断言できません。そう考えると今日という
1日の捉え方もまったく変わってきます。
私は生きるということをいつも
「死からの逆算」で考えています。
それは、学生時代に中東で得た死生観が、
今でも影響を与え続けているからです。
私たち人類は、過去から「命のバトン」を
ずっと受け継いできました。ひとりの
命は有限です。ほとんどの命は数十年で
終わります。私たちは永遠に生きることは
できません。しかし、人類は命を
「つなぐこと」で永遠を実現できるのです。
そんなことを実感したのは、学生時代、
エジプトのカイロ博物館でラムセス二世の
ミイラの前に立ったときでした。
「カノプス壺」というものがあります。
死んでミイラになった人の魂が戻ってきた
ときのために、内臓を保存しておく壺です。
ミイラとして体を保存し内臓まで保存する。
当時の人たちは、そうしてまで永遠の
命を追い求めたのです。
ラムセス二世というエジプトの歴史上で
大きな力を誇ったファラオがいます。
彼も永遠の命を求めていましたが、いま
残っているのは干からびてカラカラの
ミイラだけです。私はそのミイラを
目の前にして「魂は絶対に
この体に帰ってこない」
と、至極あたりまえのことを確信しました。
仮にこのカラカラに干からびた体に
魂が帰ってきたとしても、起き上がった
瞬間にボロボロに壊れてしまうでしょう。
一方でエジプトの古代壁画には、子孫繁栄の
さまざまな宗教行事がたくさん描かれて
いました。二度と魂の戻るはずのない
ミイラと子孫繁栄行事。このふたつが
一瞬にして私の頭の中を駆け巡り、
永遠とは「長生きすること」ではなく
「生まれ変わり続けること」であると
確信したのです。
伊勢神宮が式年遷宮を繰り返して、
美しく気高く生まれ変わり、いつも
みずみずしくあるように、個々の命は
追い滅んでも、種としての人類は、常に
活力に満ちあふれている。それこそが
「永遠」という営みです。
ラムセス二世のように、宗教と政治を司り、
権威と権力を握り、とてつもない力が
あった人間ですら、90年の命でした。
どんな人間でも100年も経てば死ぬ。
どれだけ権力を誇っても、どれだけ
お金を稼いでも、必ず人は死ぬのです。
一人の命は短く、はかなくてもろい。
そのことを悟って以来、私は「今回の」
自分の人生を何に使って生きようか、と
死の逆算で考えるようになったのです。
人類という種にとって「生まれ変わり
続けていく」ということは唯一の「永遠」
であるとすれば、個体としての私が
いつか滅んでも人類の「永遠」を真に
願うのであれば、自分が今「命のバトン」
を受け取ったからには、責任を持って
次の世代にバトンをつなぎたい。
そして、せっかくなら与えられた使命を
一生懸命に果たすことで、何かを少し
でも前に進めて次につなぎたいと思うのです。
それはコツコツとした地道な仕事を
通してでもいいし、世界を変革する
起業でもいい。また次の世代を担う子孫
を残すこともひとつの命のつなぎ方ですし、
生き様を記憶として次の世代へ残すことも
できるかもしれません。
「今回の人生は、自分はどういう役割
で生まれてきたか?」
「どういう分野で、どう時代をよりよく
前に進めて次の世代につないでいくのか?」
そういった視点から今回の命の使い方を
考えてみましょう。
体力や気力も含めて、現在の寿命で
考えればおよそ30歳から60歳まで
多くの人にとっていちばん情熱を
傾けられる勝負の時間だと思います。
この30年が、「今回の」命を燃やす
ピークの時期であり、人生の活動領域を
最大限拡大させられる期間です。
そう考えると、どうしても「時間がない」
と思ってしまいます。
最後のゴングは近いのです。
私も40歳を過ぎたということは、
あとおよそ20年で今回の命のピークタイムは
終わってしまう。その前後はある意味
人生の「おまけ」だと思うのです。
私が、60歳になったときは、おそらく
まったく新しい発想と充実した気力、体力
を兼ね備えた30歳の人が活躍しているでしょう。
だから、このピークの期間のあいだに
どれだけのことができるか、命をどれだけ
燃やせるか、が勝負なのです。命の使い方、
つまり、「使命」が問われていると
考えています。

日本新時代を創ろう

私は団塊ジュニア世代です。いわゆる
バブルを知らない世代です。
大学の受験率は高く、卒業生も多いのに、
バブルが崩壊し、就職に恵まれなかった世代
と言われています。
上の世代の人に話を聞くと「主張のおみやげが
シャネルやディオールだった」
「タクシーは一万円札の束で停めた」
などの景気のいい話ばかりが飛び出します。
しかし私たちが学生の時代は
「日本の未来は苦しい」
「バブルのツケが・・・・・・」
「就職氷河期で就職先がない・・・・・・」
という希望が持てないような話ばかりでした。
私たちは明るい未来をあきらめて、
少子高齢社会を支える世代として、苦しみ
耐え忍ぶ時代を生きなければ
いけないのでしょか?
冗談じゃありません。
若い世代が、これからの時代を、私たちの
全盛期を暗いものにしないためにも、
時代や他人のせいにはせず、自らの手で、
自分たちの時代を切り拓くことが大切です。
日本はこれかまでの歴史の中で、幾多の
危難を乗り越えて繁栄してきました。
大砲を積んだ大きな黒船の恐怖に震えたとき、
爆撃によって焦土となった街を見て
呆然としたとき、地震や台風で甚大な
被害に見舞われたとき、いつもその時々の
日本人が明日への希望を捨てずがんばって
きたから、今の日本があるのです。
先人たちの努力には本当に頭が下がります。
次は私たちの番です。
今バトンを持っているのは
私たちの世代なのです。自分たちの時代の
輝きは人が与えてくれるものではありません。
相続してもらうのもではなく、自分たちで
勝ち取るものなのです。
今、社会には時代の過渡期ゆえの不安が
広がっています。
一方、テクノロジーの進化はめざましい
ものがあります。
さまざまな分野で、これまであたりまえだと
思われていた社会の概念や規制、商品、
サービスが、急速に時代に合わなくなって
きています。官も民も日本は制度疲労を
起こしているのです。
しかし、日本では、すみずみまでしっかり
制度設計されているからこそ、それらを
前提から再構築していくのは並大抵の
パワーであっても無理です。
もし映画であれば、偉大な聖人君子の
救世主が現れて、劇的に問題を解決して
くれるのかもしれません。でも現実社会には
そんな救世主など存在せず、得意なところも
ダメなところもある生身の人間、つまり
不完全な私たち一人ひとりのチャレンジの
積み重ねによって社会は変わっていくことが
できるのです。
私は36歳で福岡市長になりました。
若くして町の舵取りをさせていただくことに
なったのですが、私は決して小さい頃から
勉強が好きだったわけでもなく、友達と
バンド活動ばかりしているような人間でした。
今も、仲間と飲んだり騒いだりするのが
大好きな普通な一市民です。
同時に、学生時代の経験によって芽生えた
先人に対する感謝と、次世代のために
自分たちの手で新しい時代、明るくて元気な
日本をつくりたいという思いも、強く
持っています。どちらも本当の自分です。
決して選らばれし人間でもないし、聖人君子
とは程遠い、ごく普通の不完全な人間です。
きっと、この本を手に取って読んでくださって
いるみなさんも、多かれ少なかれ、自分の中に
そのような「ふたつの自分」を持っている
のではないのでしょうか。
私と同じように少しでも社会をよくして
いきたいという思いを持っている人たちと
力を合わせて、時代の過渡期の混沌を、
明るい未来の幕開けに変えていきたいと
思っています、そして政治や行政の世界にも、
異業種からどんどんチャレンジ人が
増えてほしいと思っています。とくに、
若い市長や知事が各地に誕生し、新しい風を
吹き込んでくれることを期待しています。
評論するのではなく、私自身も新しい価値を
つくり出すためにチャレンジし続けます。
多くの同世代、そして私より若い世代の同志
とともにチャンレンジを続けます。
もはや、毎日なんとなく過ごしていれば
老後も保障されるような安心の時代では
ありません。
しかし、変化を恐れず、攻めの姿勢で
イノベーションを起こすことができれば、
課題こそがビジネスのチャンスとなり、
人口減少は世界に先駆けた生産性の大幅な
向上につながり、逆に日本新時代の
扉をひらくことができるはずです。
悲観するのはもうやめにしましょう。
この迷走は終わりの始まりではなく、
新時代の到来を告げる胎動であり、
この苦しみは産みの苦しみだと
確信しています。
ともに私たちの時代、
希望の時代をつくっていきましょう。


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