越境1 ルーム904 その1

 カチ、カチ、と鳴っているのは時計の音だ。堅い木製の扉に鉄製のドアノブを起点として、簡素な部屋はおそらくすべてが天然素材で作られているように見える。それは同時にプラスティック製品が見当たらないということに繋がり、つまり電子機器の類は一切見当たらない。何らかの予兆のあと一拍置いて、ごう、と鈍い音が鳴る。壁沿いに配置されたセントラルヒーティングのラジエーターが稼働している音だ。それは生命に似ている、と彼は思う。

 彼が誰であるかは現時点では問題ではない。問題はいまこの部屋の主人公たる人物は彼ではない、という点にある。主人公は部屋の隅に置かれたベッドに寝ている。スチール製の簡素なベッドにはラジエーターと同じ白いペンキが塗られており、人間が塗った仕事ではないかのようにむらがなくつるりとしていて、それはそこに寝転がっている少年の頬に似ていた。そこには少年が寝転がっている、と彼は思う。けれど同時にそこには誰もいない。それがどういうことなのか彼にはわからない。彼は首をかしげる。首というものが存在するならばの話だが。

 カチ、カチ、カチ、と鳴っている時計の音が、もうじきぼーん、と大きな音を立てることを彼は知っている。彼は自分がいますべきことを知っている。誰の手も煩わせることなく開く机の引き出しがかすかに硬い音を立てる。

 舞い上がるペンと紙。乱雑だがどこか優美さを感じさせる字。灰がかった紺色のインク。

「やあ、はじめまして、そしておはよう。ここがどこだか、君にはきっとわからないと思う。それもそのはずで、だれひとり、というのは千里眼を除いてだけど、ここがいったいどこにあって、なんのためにぼくたちが集められているのか、知りはしないんだ。でもとにかく、君はひとりではない。そのことだけは確実だ。まずぼくがいる。ぼくはここにいる。そうしてぼくを知っている、ぼくもまた彼らを知っている、彼らがいる。君にとってここでの生活がよいものであるように。さて、君はしばらくのあいだここから出ることはできないかもしれない。部屋の外のことが聞きたかったら、ラジエーターの上に君の持ち物を何か置くといい。もちろん熱で溶けないものに限るけれど。大切なものであればあるほどいい。そうしたら、たぶん、残雪が来る。

 それじゃあまり悲しまないように。喜びすぎることもないように。これは単なる人生の続きに過ぎないんだから。君を人間と呼べればの話だけれど」

 ペンはさらさらとそこまで書き、迷ったように一拍置く。そうして署名は書かれないまま、紙はさらりと机の上に投げ出される。ころりと転がるペンがひっそりと天井を見上げている。キャップが外れたままであることに誰も興味を持たないように、カチ、と鳴ったあと、ぼーん、と、長く、響いた。

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越境1 ルーム904 その1

哉村哉子

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哉村哉子

越境 あるいは隔離された建造物について

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