越境13 イワン その3
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イワンは走ったことがない。脚が「あった」ころも、そういった体の動かし方が理解できなかった。言葉を話すことが、喉をそのように使うことの訓練を幼いうちにしなかったためにいまだにうまく行えないように、足を、いや、体のどこにおいても、すばやく動かすということが、イワンはずっとうまくなかったし、それは脚を「なくした」今となっても同じことだ。だから騒動を聞いた耳がどれだけ焦っても、イワンはゆっくりと杖をついて、階段を降りた。イワンの速度では「追いつく」ことは不可能だった。だから先回りをするしかない。そういった能力は持ち合わせていないから、おそらくこっちだろうと思う方へ、ただ耳を澄ませて歩いていくしかない。ゆっくりと着実に。
「それ」がもともと「だれ」だったのか、もう、イワンにはわからなかった。濃い匂いが導き、もう耳を頼りにしなくともわかった。そしてもう匂いに頼る必要すらなく目の前に「それ」はいた。イワンは片足を軸足にしてしっかりと立ち、杖をゆっくりと持ち上げた。期せずして「それ」、ほとんど液体だけの存在となったかつての朋友(だろうと思われるもの)は、振り返った。イワンを見た。――見ることが、できたのならば。
「死ね」
イワンは言った。
杖がばちっと音を立てた。それと連動しているかのように、同じ瞬間、ボッ! という、明瞭な音が上がった。そこにあるのは火柱だった。壁も天井も火柱の影響は受けず、「木」でできているはずの扉も、全く火とは無関係にそこにあるせいで、その火はとても非現実的に見えた。散った飛沫もすべていま、炎に舐められて消えようとしている。イワンが「それ」をしたのだということに、この朋友の変貌を見た全員が気づくだろう。知らないものは教えるだろう。ここまでまき散らされたものはイワンの炎がすべて燃やしている。パイロキネシス。火を発生させる、イワンの「能力」。
火柱が消えるまで、イワンはじっと待っていた。ゆっくりと小さくなっていく火柱の向こうに、すらりとした影が見えた。頭に布を巻いた、黒い目の子供。
「ツァンシュエ」
イワンはその子供の名前を呼んだ。彼は小さく顔をゆがめた。イワンはゆっくりと杖をつき、ゆっくりと歩み寄り、そこに燃え切らずに残ったものを拾い上げた。ツァンシュエに向かって差し出すと、ツァンシュエは「やだよ、熱いだろ……」と言った。
「熱くない」
「嘘つけ」
「いまここだって、熱くないだろう」
「……そうだけど」
「集めてるんだろ」
「……集めてる、わけじゃ、」
「ジョルジュの部屋でなにをしてるんだ?」
ツァンシュエは顔をよりいっそうしかめた。手を広げてみせる。その上に、そのちっぽけなものを、載せた。
「……待ち針?」
イワンは首をかしげる。その言葉をイワンは知らない。極端に単純な形の花のようなものがてっぺんについた、細く加工された金属だ、ということはわかった。花はピンク色をしている。
「待ち針ねえ……」
ツァンシュエが小さく息をつく。イワンがじっとそれを見ていると、ツァンシュエはイワンの手をみおろした。その手はいま、黒い。
黒い手袋が、イワンの手、杖をついているほうの手首までを、包んでいる。
さっきまでなかったものだ。
イワンは一拍、そっと目を閉じて、ひらく。はずして見なくてもわかる。そこにはイワンの知らない「それ」がある。イワンの片側はもうほとんどが「それ」になってしまった。おかげでひどく歩くのがつらい。もう出歩くことをあきらめて部屋にいるべきなのかもしれない。なぜ自分の身には、とイワンが思う。さっきイワンが殺した子供のように、劇的な死が訪れないのだろう。硬く透明に変わっていくイワンの体。そのなかでかぼそく光る糸のようなもの、フィラメントという名を、イワンは知らない。
イワンが子供を殺すたび、イワンは「それ」へと、変身してゆく。
――最初はジョルジュの時だった。
「ジョルジュの部屋のことなら」
ツァンシュエは腰のあたりに指をさまよわせながら言った。
「俺は、何も」
「何かはあるよ」
唐突に高い声がしてツァンシュエがばっと顔を上げる。イワンのとなり、おともなく歩み寄った小さなバキリが、ツァンシュエを見上げて笑顔で言った。
「何かはね」
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・△さんとのリレー小説です。次回「越境14」
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