萩の原逍遥記(宙1)
世界がどれくらい美しかろうとそれはぼくには関係がない。
夜の道を歩いている。ぼくはお酒を好まないが、仕事上の付き合いで飲みすぎてしまうことはある。お酒を飲んでいるとぼくは自転車に乗ることができない。子供の頃、自転車に乗れるようになったのは、ぼくがいちばん遅かった。ぼくはそのことを、―――にだけは知られたくないと思っていた。ぼくがみそっかすなことを、―――にだけは知られたくないと思っていた。
ときどきそれを君に話す。
あのころ―――に言えなかったことを、ときどき君に話す。あるいは話さない。ぼくは自転車を押して歩いている。空がみょうにぐらぐらに広く、ぼくは、きみのほうがずっと美しいと思う。君に会いたいと思う。
ぼくが君のそばにいないとき、君がどこでなにをしているのか、ぼくは心配でたまらず、同時に、とてもどうでもいい、と思っている。君が幸福であることを全てぼくがつくりだすことはぼくにはどうせできっこないのだから、すべてどうでもいい、と思っているときがある。そのことがぼくにはとてもくるしくかなしい。ぼくは君が好きだ、ぼくは君が好きだ、ぼくは――
空が君に似ていないので悲しい。
道に、うずうずとしたものたちが、集まってきているのがわかる。それは、ぼく自身なのだと、ぼくは思う。それらは貝のかたちをして、人間の耳には聞こえない程度の声でなにかを言っている。それはぼくの耳にとてもやさしい。自転車にまとわりついて、ぼくの足にまとわりついて、彼らはぼくにとてもやさしい言葉を与えてくれる。君は決して与えてくれない、やさしい、やさしい、言葉を。
ねえ、――ちゃん、ぼくはね、――たいんだよ。
君と一緒に。
「ほんとうに?」
唐突に、ぼくはこわくなった。そこでやたらに大きく聞こえた声は、―――のものによく似ていた。―――はいつもぼくを監視しているような気がする。そうして同時に―――は貝たちにとてもよく似ているんだ。貝たちはまるでお菓子みたいな甘いようすをして、ぼくに本当のことを言わせようとする。本当の本当の本当の本当の本当のことを言わせようとする。ぐらぐらしている。世界がぐらぐらしているんだ。酔っぱらって見る世界はとてもきれいで、それは全然ぼくには関係がないので悲しい。
「マドレーヌをさあ」
ぼくは言っている。
死体のように廊下の真ん中に転がっていた君が、重いまぶたを持ち上げて、目を開ける。生きている。あおじろい君をぼくは見下ろしている。ぼくの宇宙。あらゆる空のなかで最も美しいぼくの宇宙。
「もらったから」
君は笑って、それなら紅茶を淹れよう、と、言った。
朝四時に。
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