皆方探偵事務所異聞 さよならの作法(完)

「こないだ三人でまたやったじゃん」

「なにが」

「タンテー」

 パイプ椅子に腰かけた啓秀くんが、平板な口調で、タンテー、と言い、ああ、と僕は応える。身を起こした桂さんはまっすぐ前を向いたまま、反応をしない。それはもういつものことになってしまったので、僕はもう別に、何も感じない。

 桂さんのお母さんと妹さんが来て、帰っていった。僕たちはあまり話をしなかった。僕が、これから先も桂さんと一緒にいてもいいですか、と聞く前に、桂さんのお母さんは僕がそうしたがっているということを知っていたみたいだった。桂さんのお母さんは、「これからもよろしくお願いしますね」とだけ言って、そうして今日、見送ってきたところだった。

 ななつ年下の妹の清花ちゃんは二日ほどいてそれからさっさと帰ってしまったので、僕は、啓秀くんに「すれ違いだったね」と言いそびれたけど、でも別に啓秀くんは女の子ならだれでもいいわけでもないんだろうし、僕のその冗談はたぶん滑ることになったんだろうと思って、啓秀くんのとなりに並べたパイプ椅子に腰かけている。

 僕はあれからずっと半分冷静で半分ぼんやりしたままで、半分くらい夢の中にいるような気持ちで、毎日忙しく生活している。

 桂さんのいる「元通り」の生活をするために。

「探偵、どうしたの」

「やろっかな」

「啓秀くんが?」

「ミナカタ探偵事務所。入ろうかな」

「いいよ」

 啓秀くんは僕をちらりと見て、「考えとくね」と言った。それはたぶん僕のほうの台詞だったので、ちょっと面白かった。「いつでもおいで」

 皆方探偵事務所は職員を募集している。


 探偵をやめようかなと思っていた。

 探偵事務所を維持するために、ずっと深夜麻雀でちまちま金を集めて無理やりどうにかしていたのを、結局桂さんに伝えそびれたのだけれど、夢の中で時々会う桂さんは「いつもそばにいる」と言っているから、今はもう知っているのかもしれない。あれが本当に桂さんなのか、僕が見ている都合のいい夢なのか、僕には区別をすることができないし、幽霊がいるのかどうかなんて、考えてみたこともなかったのだけれど。

 どっちでもいいよと僕は思う。

 半分だけ夢の世界をたゆたいながら、いつも半分茫然としながら、僕はいろいろな人に頭を下げて回っている。

 桂さんと付き合い始めてから、なんとなくやる気がしなくなって、まず麻雀をやめた。たぶん僕は寂しいからあんなに毎晩遊んでいたのだと思う。桂さんが生きていた間は、桂さんと遊ぶのに忙しくて、ほかのことをして遊んでいる場合ではなくなってしまった。今は、桂さんと暮らすので忙しくて、これから桂さんと暮らしていくことで忙しくて、たぶん、やっぱりしばらく、遊んでいる場合ではないと思う。

 とにかく麻雀はやめようと思った。麻雀をやめて、そしたら探偵だけで食っていけるわけがなくて、わけがない、と思っていて、探偵全然向いてないからやめたほうがいいと思っていて、探偵という仕事が楽しいとも思えなくなっていて、だからやめようと思って、事務の佐倉さんにも事務所をたたむ話をして、そして夏からずっと、抱えている数少ない仕事の引継ぎ先を先輩や知人の探偵にあたっているところだった。

 すみません、と再度僕は言って回っている。

 桂さんのことを僕は全部説明する。それから、朢月甫乃果という名前の、彼女についての話を。そうして僕は探偵を続けなくてはならないということを説明する。僕はここにいて、守らなくてはならない生活があるということに気づいたので、仕事を手放すわけにはいかないということを、説明する。

 そして、できれば手伝ってほしい、ということを、説明する。

 年の離れた先輩がふたり、皆方探偵事務所に帰ってくる。佐倉さんに、事務所の継続についての話をする。僕はなんだか謝ってばかりいる。でもなんだか、昔とは全然違うふうに、喋れているような気がする。今何をしゃべるべきなのか、わかるようになったような気がする。半分夢の中にいるようになってからのほうが、冷静に話せるようになったような気がする。

 そうして啓秀くんが来るかもしれなくて、だから別にもう、もともと桂さんがいたころとは全然違っていて、でも、皆方探偵事務所はここにあるので、いつでもここにあるので、名簿には桂司郎の名前がずっと載っているので、たぶんそのために僕は、続けるんだと思う。

 探偵という職業が、僕は嫌いではなくなった。

 僕はたぶん、人を救うことができるのだと思う。

 そしてそこには桂さんと僕自身も含まれている。


 恋が始まった時、僕は桂さんに、ごめんなさい、と言った。あなたを好きになってごめんなさい、と言った。僕はあのとき、できれば僕のことを嫌いになって逃げだしてねとあの日、僕は言いたかったのだった。それは僕のさよならの作法だった。多分。

 そして桂さんは、逃げ出さずに僕の手を取って、そうして今も僕の手の先にいる。僕は桂さんの手を引いて家に帰る。僕たちが選んだ僕たちの家に。そこは僕の生まれ育った街で、どこにでもある、平凡な街で、二人暮らしのための部屋を、父親のつての不動産屋をあたって探した部屋で、ニトリで買ったベッドがあって、僕は抜け殻の桂さんの手を引いて家に帰る。抜け殻の桂さんは従順に僕についてくる。

 桂さんの食事をとらせて、歯磨きをする。お風呂に入れて、髪を乾かす。いつか桂さんが教えてくれたとおりに、肌のケアをする。桂さんはほんとうはメイクアップアーティストを目指して東京にやってきて、桂さんがメイクアップアーティストに本当になれていたら、僕と彼は一緒に暮らすことにはならなかった。

 僕は桂さんの手を引いて桂さんをベッドに寝かせる。僕はソニーくんを桂さんの枕元に置く。やがて朝がきて、僕は桂さんの枕元のソニーくんのスイッチを入れる。桂さんの頬を撫でると、桂さんは目を開く。僕は囁く。ソニーくんが朝を告げている。

「おはよう、桂さん」

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