ταυτολογίαあるいは秋の海の出来事(5)殺人事件
沖に台風がいた日曜日、路地裏から裏口に登る七段の階段の上で吐き気を堪え切った話をしてください。
ここは「昨日の国」だ、とトートロジーは思う。
古びた階段を裏口から入るために七段の階段をのぼる。裏口を入ってすぐに大きな冷蔵庫が見える。そこに、と彼は思う。そこにその小さな体を閉じ込めることはできるだろう、と。いつか自分は、と彼は思う、その小さな子供のような存在を殺すのかもしれなかった。殺すのだとしたらどんな理由だろうと彼は空想する。理由は必要なかった。ここは昨日の国だ。そして明日へ脱出するためにはそれをきっと行うのだろう、何かを行わなくてはならないとしたら、それなのだろう、何かを、行わなければならないとしたら――なにを?
トートロジーは冷たい秋風の吹く海辺の街に暮らしている。
――元気にしているか?
手紙を書く。
仕事をはじめたこと。飼い猫の足が折れたこと。だれもいない部屋に冷蔵庫があること。魚のにおいがすること。焼き魚の焼き方を覚えたこと。仕事をはじめたこと。おまえについて思い出すということ。
「誰に書いてるの」
足を折った飼い猫が聞く。そんなふうに思われているということをメタファは知らない。ある日メタファは足が折れた。違う。違う、本当は。とにかくメタファはホテル・ユートピアのベッドで寝たきりで、どこかに出かけていくことはなくなった。食べ物がないと困るだろうなと思った。他人事のようにそう思って、その日の夜からはもう働き始めていた。焼いた魚が冷め切るまえに帰る。あたたかな米と煮物と魚を持って帰るとメタファは小さな体を緊張させて、怯えているようだった。
「弟に」
怖がらなくていい、とトートロジーは言った。
メタファは足が折れたのではない。
トートロジーが折った。
彼は手紙を書いている。彼は繰り返し手紙を書いている。同じような内容が繰り返される手紙を。彼の手紙のなかでトートロジーはいつも、怒っていない、と書く。あれは仕方のないことだったんだ、と書く。書くたびに、本当は嘘をついているようだ、と思う。ぐるぐるとうずまく台風の、目の中に入ってしまっただけなのだ。ここは昨日の国だ。台風の目の中にある昨日の国だ。
メタファは悲鳴をあげなかった。
小さな体がトートロジーの体のしたにあり、メタファはただ熱い息をこぼした。終わってしまえばそれはあっけなく、折れた骨はそのままにメタファは高熱を出した。そのあいだトートロジーはメタファの体を抱き寄せていた。どうしてそれを行ったのかわからなかった。どうしてメタファに暴力を揮ったのかわからなかった。なにひとつわからなかった。自分が誰なのかも、何を感じていたのかも、どこへ行きたいと思っていたのかも、すべて失ってしまいつつある、とトートロジーは思う。手紙、大量の手紙。焼き魚屋でもう要らない帳面を貰う。裏面が白いから何でも書ける。別に渡すわけじゃないから何に書いてあってもいい。どんなことを書いてもいいのにトートロジーは「怒っていない」と言い続けている。メタファは泣かなかった。諦めきった聖人のように笑っているその顔は概念としての母親のようだとトートロジーは思った。現実の母親とは全くのかかわりのない、清純さを、母親という言葉のなかに撓めている。メタファ、とトートロジーは呼ぶ。
「こわい?」
メタファは目をふせた。そのからだのなかで唯一のこされたまつげが精密な影を落としている。
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