皆方探偵事務所異聞 南方睦実の恋情2

※続きあるいはネタバレがないほう。こっちだけでも読めます。

----------------------

「話が通じる相手なら対話をすればいいじゃないか」


「睦実くん、睦実くん」

 ぼんやりと目をあけると、ぺこんとペットボトルが頬に押し付けられた。買い置きの炭酸水のペットボトル、ダンボール箱の匂いがすこしうつったそれをは、冷蔵庫の中からではなくて箱買いの箱の中から出されたものなのだろう。僕を見下ろしているのは僕の母で、彼女は片手に棒アイスを持ったまま、僕をみおろして「だいじょうぶ?」と聞いた。

「わからない……」

 だいじょうぶ? 大丈夫ってなにがだ。僕がという意味なら僕は全然大丈夫ではなかった。なんで母は僕のガリガリ君リッチメロンパン味を食べているんだ。いまは何時なんだ。「お母さん」

「なんですか、睦実くん」

「いま何時ですか?」

「はんじ」三時、と彼女は言った。三時。「夜の?」

「夜の」

「僕はどうして玄関に寝てるんですか?」

「酔っ払ってるんだよ、睦実くん。君は酔っ払って帰ってきて、そこに倒れていたんだよ。30分くらいかな。水を飲むといいんじゃない?」

「そのための水ですか、これは」

「そのための水ですね」

「炭酸水だ」

「炭酸水好きでしょう」

「音が好きなんです」

「水を飲みなさい、睦実くん」

「飲んでもいいんですけど質問があります」

「先に飲んだら」

「僕好きな人ができたんです」

「それは質問ではない。おめでとう」

「それは間違ったことだと思うんですよ。僕は間違ったことをしていると思うんです。僕は間違ったことをしているんです。間違ったことをしているということをお伝えするのは自己満足でしょうか?」

「意思の疎通を取るのは大事なことですよ」

「それお父さんにも言われました」

「いつ?」

「さっき」

「さっき」

 お母さんはぱちぱちとまばたきをして、「お父さん、三年前に死んだでしょ」と言った。

「そうなんだけどさっき会いました。よるのまちでお酒飲んでらっしゃいました。ずいぶん若かったな。死ぬと若返るんですかね」

「いいなあ。わたしも会いたいなあ」

 彼女はしみじみとそう言った。僕はそれがとても羨ましくて、そうして申し訳なくなって、「ごめんなさい」と言った。

「お母さんのほうがお父さんに会いたいのに、ごめんなさい」

 お母さんは肩をすくめて、「水を飲みなさい」と言った。僕のガリガリ君をかじりながら、くぐもった声で言ったので、僕は少し笑った。

 たぶんあれはお父さんだったんだ、と僕はぼんやりする頭で思っている。ペットボトルのキャップをあけるとぷし、と音がした。僕はきれいな音がするものが好きできれいなものが好きで僕は自分のことがきれいだと思えないのでつらかった。僕は夜の闇の中で父のような人に会って、その人はとてもやさしい声で、「対話をしたらいいじゃないか」と言った。彼は父にとても似ていて、そうして夜の闇の中に消えていった。僕の喉を発泡性の水が滑り落ちていってそれは父に似た声が僕の中におどろくほどすなおに染み込んでいったのと近い、感覚だった。


「保留にさせてください」

 ~これまでのあらすじ~仕事の部下(27歳男性)に劣情を抱くという最低な精神状態に陥ってしまった僕、私立探偵南方睦実(24歳男性)は夜の街で泥酔しているうちに陽気な酒の席にまぎれこみ、そこで親切な男性に天啓のような言葉をかけられた結果、自分がどれだけ最低な人間かありのままを打ち明けることにしたのでした。


 の返事がそれだった。

「どう思われますか、お母さん」

「睦実くん、もしかして恋愛をするのははじめてなの?」

「たぶんそうなんじゃないかと思うんです」

「それじゃあ仕方ないけど、でもなにかあるたびに深酒をするのは体に悪いと思う」

「僕もそうだなとは思っているんです。でも、お母さん、僕は打ちのめされてしまって、お酒と陽気な仲間が必要でした。近頃よいお店を見つけたんです。皆親切にしてくれて、僕はつい飲みすぎてしまうんですよ。僕は弱い人間です、お母さん」

 お母さんは肩をすくめて、ペットボトルを僕の額の上で振った。僕の目の前で、泡が立って転がっていくのが見えた。開けるとき、と僕は妙に冷静に思った。ゆっくり開けないと、吹き出してしまうかもしれないな。お母さんが毎晩夕食のお供に飲む発泡水。ダンボール箱に入ってAmazonの定期購入で運ばれてくる。

「好きな人にお話をしたの?」

「しました。そして謝りました。間違ったことなので」

「どういう返事が欲しかったの?」

「……軽蔑されたかったです」

「それはしないでしょう」

 べこん、とペットボトルが額の上で鳴る。僕はうう、と唸った。なんでお母さんはそんなふうに桂さんのことがわかるんだ。桂さんだってこと自体知らないはずなのに。僕にはなにがどうなってるのか全然わからない。どうして桂さんに軽蔑されなかったのかわからない。桂さんはまっすぐ僕を見て、「先生が、俺に暴力を振るっているっていうことは、ないと思いますが、よく考えさせてください」と答えた。それ以上でも以下でもない、桂さんの、いつもの、意味のこもらない目つき、それが、たぶん随分好きだったなと他人事みたいに思った。べつになにを試すでもなにを嘲るでもなにを期待するでもない、ただそこにいるだけの、桂さんのことを僕は随分好きだったな。

「恋って、いうのは。どういう気持ちで言ってるんですか。先生は」

 先生、と呼ばれるのはこんなに重たいことだっただろうか。僕は息をつく。「あのね。僕は大抵の人のことが好きで、プラス1とかプラス3とか、好きって気持ちが大抵の人に対してあるの」

「はあ」

「でも桂さんのことは30くらい、そうだな、気になってる」

「30」

「30」

「気になってる。それは、恋、なんですか」

「……そう、だと、思います。僕は」

「……保留にさせてください」

 桂さんのまっすぐな目。ふと僕は桂さんの頬に触れたくなって唐突に泣きたくなった。そういうぐちゃぐちゃを僕はたとえば30と呼んでそれから、恋と呼んでいて、桂さんの紅潮した火傷痕に僕はそのときたしかにキスをしたかったのだった。

 お母さんが繰り返して、べこん、とペットボトルを僕の額の上にぶつけた。「睦実くんは、面倒くさい子だねえ」お母さんはとても他人事のように言った。僕は母のことが好きだ。3くらい。僕の人生には3くらいまでの好きしかないのだとずっと思っていた。僕が生まれた時には父はすでに老人で、母は自由にやりたいことをやっていて、僕は両親に対して敬語で喋るし、物心着いた頃には両親とではなく自分の部屋で寝ていたし、両親も別々の寝室で寝ていて、そういうふうに育ったし、それが変だとも思わなかった。ただ3くらいの好意をたくさんの人間にのべつくまなしに抱くのはなんだかおかしいのかもしれないとは思っていたけれど、それだって害があるわけじゃないし、ないじゃないか、ないだろう。3以上には思えなくて人の好意を無碍にするしかなくなるとしても。

 開けたペットボトルはしゅ、と音を立ててしゅわ、じゅ、とあふれて手を濡らした。僕はぼんやりとそれを見ている。母は肩をすくめてその場を立ち去る。僕はペットボトルに口をつけないままでぼんやりと玄関に座り込んでいる。


 夢を見る。

 夢の中の列車に、少年がひとり座っている。それは桂さんだ。僕は桂さんに、君は降りないの、と聞く。少年の桂さんは、俺はいいです、と応える。そう、と僕は言う。僕は彼の手を引かない。桂さんは銀河鉄道の夜の向こう側に去っていく。僕は思う。だって桂さんは――

 銀河鉄道。

 あの話は。

 たしか。


「こじらせすぎじゃない!?」

 ふと覚醒する。

 目の前に明松啓秀がいる。僕はここまでのことを唐突に思い出す。

 僕は啓秀くんのことを、これまで、14歳のかわいそうな家出少年だと思っていたふしがあったのだけれど、そうして天使のように綺麗な子だと思っていたのだけれど、そして僕はいちおうバイなので綺麗な男の子と同じ部屋で寝るなんて言語道断だと思っていたのだけれど、僕が事務所の仮眠室で十分だけと思って四時間寝入ったところに啓秀くんがやってきて事故が起こった。具体的にかつ完結に言うと僕はファーストキスをロストした。事故です。事故なので別にどうということはないんだけれどもそれはそれとして僕は死ぬほどうろたえたしだってファーストキスだからね、そして啓秀くんは、

 これまでに見たことがないような、いたずら小僧そのものの顔で、笑った。

「えっ、ミナカタさん、もしかして……」

 生きる意味に気づけないまま好きな遊び方も思いつかないまま生きているみたいに見えた啓秀くんが、何にも興味がなさそうに見えるから天使みたいに思えたのだと僕は思った。いたずら小僧のようにほくそ笑んだ啓秀くんはそれはそれは魅力的で僕は少し見蕩れてそれから、「ほっといてくれ」と言った。

「えーっ!? ミナカタさん、おいくつでしたっけぇ」

「ほっといてくれって言ってるだろ」

「えっ、マジで!? マジ!? えっないでしょ、ないでしょだってキスくらい五歳くらいで」

「黙れクソガキ!」

 僕が喚くと啓秀くんは愉快そうにけらけらと笑った。「えーっ南方さん、もしかしてー! フフッフフフねえねえねえねえ好きな人は!? いたことあるでしょ!? いる!?」

「ぶち殺すぞ」

「いるんだ! おれ知ってる人!?」

 顔がめちゃくちゃに赤くなったのがわかった。啓秀くんはおそろしくあどけない笑顔で心から愉快そうに、「桂さん?」と言った。

「な、なん、なん、なん、けーしゅく、な」

「いや、二択だったんだけど。客ではないだろうし。桂さんにあんた結構懐いてるし。えっちょっと話聞かせて」啓秀くんは僕を横目で監視するように見つめながらすごいスピードでスマートフォンを操作した。「ビンゴ、ここは酒でしょ朝から空いてるところに行きましょうほら早く」

 かくして啓秀くんは僕のあらゆる懊悩を全て笑い飛ばした。

「こじらせすぎでしょ」

「……いろいろな価値観があるからね」

「あのねミナカタさん」まるで聞き分けのない子供を諭すように、手酌でビールを僕のグラスに注ぎながら、啓秀くんは、歌うように言った。

「桂さんは普通の、あたりまえの、人間で、自分で判断ができるよ」

「……君になにがわかるんだ」

「いまのミナカタさんよりわかるよ。ねえ、それより、どこ、どこに惚れてんの」

 僕は渋面になった。

「わからない」

 これほど情けない返事があるだろうか。

気に入っていただけたらサポートいただけるとうれしいです。