合奏

 カセットコンロにかけられたやかんが、コー、と、かるい音をたてている。錯覚のようだがたしかに音はしているはずだ、と椎野は思う。その音は耳鳴りに似ているが、たしかに、音は聞こえているはずだ。
 コー、聞いている音に、ぱたん、ぱたん、ぱたん、と、床を叩く音が混ざった。よく響く、とその二重奏に耳を傾けているうちに、ぱたんの方はごく近くなり、止まった。
「響くな」
「はい、響きますね」
「おまえ眼鏡は」
「寝る前なので、かけません」
「見えんの」
「字は読めませんが、だいたいは」
 高森のスリッパはオレンジ色だった。高森の地味な服装のなかで良く目立った。椎野は椅子の上にあぐらをかいてテーブルに肘をつき、コンロのコイルが赤いのを眺めている。高森が椅子を引いてテーブルにつくと、テーブルはがたりと揺れた。
「やっぱガタガタしてんな」
「してますね」
 椎野は肘に力をこめ、がたん、がたん、がたん、とテーブルを揺らす。高森は、眼鏡なしのどこか間が抜けて見える顔で目を細め、アハハ、と笑った。
「湯がこぼれる、とか、言えよ」
「ハハ、こぼれても困るのは僕じゃないですよ。湯たんぽですか」
「そう」
「持ってきたんですか」
「そう。俺これないと寝れないの」
「正しい判断ですね、荷物ですけど」
「まあな」
 椎野の湯たんぽもオレンジ色で、高森のスリッパ同様、殺風景なここでよく目立った。机の上になげだした、椎野のプラスティックの湯たんぽを、椎野はぽかんと叩く。中身がはいっていないので、空洞に反響して、ぽかんと音がした。やかんの、コー、と響く音も、空洞に反響しているのだろうか。
「音が響くのは、天井が、高いからでしょうか」
「へ?そういうもんか」
「わかりませんが」
 空洞に響くのか。
 高い天井は遠く、広い部屋のなかに、机と椅子を置いた。高森と椎野は、今日からここで暮らすことになる。
「お湯は余りますか」
「たぶん余る」
「僕、お茶がのみたかったんです」
「そんなもん持ってきたっけ」
「はい」
 高森は、膝の上に乗せていた小さな箱を、テーブルの上に置いた。椎野が箱をあけると、なかには缶と瓶がいくつも入れられていた。
「どれが好きですか」
「これ私物?」
「はい」
「こんなん好きなのか」
「はい」
「適当に選んでいいか」
「どうぞ。カフェインとか、問題なければ」
「平気、コーヒー飲んでも寝る時は寝れる」
「僕もです」
 椎野はぐるぐると指をまわし、右端の瓶をとりだした。透明な瓶のなかには、茶色い大きな葉が入っていた。
「ほうじ茶ですね」
「なんだ、平凡だな」
「いいですか?」
「うん、それで」
 瓶を渡した。高森が立ち上がるとき、テーブルはまた、がたん、と揺れた。二度ほどぱたん、とスリッパの音を響かせたあとで、テーブルの横に置いた、食器の入った箱のなかから、高森はティーポットと、マグをふたつとりだす。
「ほうじ茶なんか、湯のみで飲みてえな」
「そうですか?」
「気にしないの?」
「はい」
「ふーん」
 茶葉ががさがさと、さらさらと、おちて、積もる。また二重奏、と椎野は思う。
「高森」
「はい」
「これ、聞こえるか」
「どれですか」
「やかん」
「やかん?」
「やかんの音」
 高森は怪訝そうに椎野をみつめてから、ああ、と、やかんを見た。
「聞こえますよ」
 高森は、瓶のふたを締め、瓶を持ったまま、トー、と、言った。
「トーか」
「トーじゃないですか?」
「俺は、コーかな」
「コーですか」
 トー、トー、と高森は呟くように音を漏らしながら、リズムをとるように、手にしたままの瓶ので、テーブルをこつこつ叩いた。椎野はその呟きの合間をぬって、コー、コーコー、と、やかんの音が消えないように小さな声で歌いはじめる、歌と呼ぶには単調ではあったけれど。ときどき湯たんぽを叩くとぽかんと言い、高森は、ぱたん、ぱたん、と大きな音を響かせた。合奏は遠い天井にまぎれ、遠ざかった。

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2011年2月1日

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