越境17 マイケル その2
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行彦とマイケルの、いわば秘め事といえる温室での生活は静かに続いた。秘め事、と行彦は思い、なんだかすごく、なんだか……とぼんやり思った。それを冗談として理解するにはマイケルは幼すぎたし、残雪はわかってあるいは笑ってくれたかもしれないけどそれよりこのすべての顛末に怒りをあらわにする可能性のほうが高かった。もちろん行彦としても冗談を言いたいというだけの理由でここまで秘密にしたことをおおやけにするつもりはなかった。なかった、というより、もう、できなくなっていた、と言ったほうが正しかった。
温室は、行彦がでかけていくたびに、姿を変えていた。
「ぼくの国には大きな公園がいくつもあるんだ。大都会のまんなかにも、自然を保護するための自然そのままの場所もあるよ」
公園について喋るとき、マイケルは拙い日本語の拙さにもどかしそうに、「心の声」に切り替えて喋った。そう、そこはもはや温室ではなく、公園だった。青い空こそないものの、高すぎる天井は青色で、そして美しい植物がたくさん茂っていた。行彦もべつに植物に詳しいわけではないけれど、と行彦は思った。それは多分、架空の植物だった。マイケルが一度も見たことのない、広大な公園にある、美しい植物。マイケルの心のなかにだけあるもの。
実際のマイケルの、「そこ」での生活には、多少の余裕のある住民が育てている枯れかけの鉢植えくらいしかなかった。マイケルを「公園」に連れていく大人は誰もいなかった。マイケル、と名前を呼ばれるときは、叱られる時だった。人工的に甘ったるい化粧品のにおいのするクローゼットだけがマイケルがひとりに慣れる場所で、でもそこに閉じ込められるとマイケルは泣き喚いて、ぶたれた。
ここは「自然」だ、とマイケルは笑う。
三十八日。マイケルは名前を呼ばれてもびくつかなくなった。笑うようになった。ここが大好きだとマイケルは言う。――当然だ。
だってここにはマイケルの望んだもの以外なにもない。
教室に戻る。あるいは食堂に。白い部屋、粘土に似た食べ物。「別になにも食べなくったっていいのに時々何かをむしょうに食べたくなる」残雪がぼやく。「人間でいることにまだ執着があるからだよ」バキリが嗤う。そういえばイワンの姿を見ていない。三十五日前以降、まだみんな「人間」のままだ、ここにいるみんなは。
「……もしかして」
行彦は言いかけてやめる。なにも口にしないまま突っ立って笑っているバキリは笑い続け、残雪は眉をひそめてしかし何も言わない。
これらは全て――
「マイケルは、れんしゅう、する。うまくなったよ」
マイケルがそう言って、手を動かすと、ゆっくりと、その、果実が持ち上がった。
どうしてぞっとしたのかわからない。温室、いや、「マイケルの公園」には、食べ物はない、なかった、はずだった。そのことにずっと気づいていたと、行彦は今更気づく。ここには美しい花と美しい木々があるばかりで、でも実はなかった。どうして気づかなかったんだ? あたりまえじゃないか。粘土。
食堂ではみんな、粘土を食べている。ボタンのない服は、羽織って前をあわせるとおぞましいほどの自然さで境界をうしなう。木製のように見える机はしかし絶対に傷つかないし、けがは数秒で治る。人間とは何者の名だ。これらは全て。これらは全て、彼らから、人間でいるということを、剥奪するための――
行彦とマイケルの間で、ゆっくりと、果実が、六つ切りに割れた。果実はとろりと蜜をこぼした。マイケルは笑った。とても無邪気に笑って、「食べて」と言った。
食堂ではみんな粘土を食べている。
食べなくていいのに。
おなかはすいていない。
「だめだ」
行彦は言う。
「だめだ、マイケル。食べちゃいけない」
だってみんなは、食堂で――
マイケルが目を丸くした。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。すっと遠い天井が下がったことにまず気づいた。目の前にあった明るい光も、揺れる緑も、唐突に消えた。白い部屋に、ただ植木鉢だけがある。なにも植えられていない植木鉢だ。植木鉢だけが並んでいる。それが一斉に、ふっ、と、持ち上がる。マイケルは口を覆う。浮いていた果実が落ちた。ぐしゃりと潰れて、それから。
「爆発したんだ」
廊下に木が生えている。
どうして自分は泣いていないのだろうと行彦は思う。マイケルは。マイケルを助けなくてよかったのか。わからない。わかっているのは自分が逃げたということと、今度はひとりで逃げたということだ。マイケルはどこにいる? 夢を見ている。まだ夢の続きにいればいいのに。植木鉢しかない部屋。マイケルの夢の中の「現実」。
願い通りの出来事。
――「誰の?」
「爆発したのは、おれの、せいじゃ――」
どうして木に向かって話しかけているのかわからなかった。どうして廊下に木が生えているのかも。でも残雪は人間を相手にするみたいに木に話しかける。殴りつけるやつもいた――死んだんだっけ。気になっているから必死で目を逸らそうとするやつもいる。イワンは諦めたように目を伏せていた。この木は何なのだろう。
ぽとり、と何かが落ちた。行彦は迷って、拾い上げる。
小さな硬い、木の実だった。
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・△さんとのリレー小説です。次回「越境18」
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