ταυτολογίαあるいは秋の海の出来事(3)肉体

 パイを貰った。

 ごうっと音を立てて通り過ぎるものはなにだろうと思った。私は真昼間の銀行にいた。銀行はとても広いように思えた。そこは私の理解している銀行とは違う場所だった。一番、二番、三番、四番、五番、六番、整然と並んだ部屋が見渡す限りどこまでも続き、私はドアマンから受け取った二番の番号札とともに、二番待合室に入った。

 ゴロン、と重い音をたててドアが閉まり、その瞬間、ゴロン、と脳の中から、おぞましいほどに唐突なものが転がり落ちてきた。

 メタファの肉体だ。

 埃と雨の湿った匂いのするベッドだった。そこで行われたことはあまりにも陳腐であまりにも予定調和でそしてあまりにも絶望的なほどにラブストーリーに似ていた。子供の頃愛した音楽を陳腐だと感じるとき唐突な悲しみが来た。けれどそれは事実だった。そしてそれは音楽が悪いのではなかった。悪いのは全て私だった。メタファの肉体が指先の向こうにある。

 触れる。

 肉体が柔らかいなどというのは幻想にすぎないのに(メタファは肉の足りない体をしていた、おそらく廃棄物であろうコンビニエンス・ストアの袋を思えば当然のことだった)それでも骨と皮膚の間にあるすこしの肉が私の指が触れてくぼんだ。メタファは無言だった。おそらくは眠っていた。私はメタファの体を抱き寄せた。メタファは不思議に何の匂いもしなかった。汗とも埃とも無縁の存在のようにメタファはそこにおり、私はメタファを通じて無を嗅いだ。わたしはメタファを卵を抱くように腕のなかに抱え、そこに、骨と皮膚の間に、たしかに肉と、そして熱い潮が流れていることそれ自体に触れていた。

 銀行の中にわたしはいる。いくつかの扉といくつかの壁に阻まれているのに、どうして外の音が聞こえるのだろう。あるいは、どうしてそれを外の音だと考えているのだろう。私は目を閉じる。客室のような小さな部屋。閉じた窓に向かったローテーブルの上に置かれた茶菓子。茶そのものはそこになかった。だからそれは実は茶菓子ではなかったのかもしれなかった。ふと脳内でメタファの声が響いた(それは当然幻覚だった)。

「パイは人を呪うよ」

 私は指先で、シャツの下に隠された私の人面疽をそっと撫で、目を閉じたまま、小さな茶菓子をてさぐりでつまんだ。それが喉を通りすぎるとき、私の脳裏には、果てが見えないほどに遠い塔の向こうを旋回する、大きな薔薇があった。私は腕の中にメタファを感じていた。メタファの体のなかを通り抜ける、練りこまれたあたたかいぬるりとしたものを。

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