見出し画像

越境15 マイケル その1

・△さんとのリレー小説です。前回「越境14」初回「越境1

-----------------

 三十二日前まで行彦でなかった少年は、ゆっくりと行彦と呼ばれることに馴染んだ。もっとも、行彦、という漢字をユキヒコと呼ぶことができる人間も、ユキヒコという名前が行彦という字を書くと知っている人間も、ここにはいなかったけれど。アメリカ、アフリカ、中国、インド、チリ、オーストラリア――文字通り世界中から集められているのは決まって少年、わざわざ尋ねたわけではないので確実なところは知らないが行彦が知る限り、十から十八歳まで。

 真っ白な階段、真っ白な壁。たくさんの人間が手を滑らせてきたあとが残る――ように、見える、手すり。道のりそれ自体は問題ではないと、行彦はもう知っていた。階段の踊り場をいくつか過ぎ、ふと、扉のない廊下がある。扉がない、ないのではない。そこには大きな扉がひとつしかない。扉を開く。

「行彦」

 ユキヒコとは行彦と書く、と、知っている人間はいなかった。

 過去のことだ。

 マイケルは座り込んで、せっせと花冠を作っていた。行彦が教えたものだった。それは行彦に祖母が教えてくれた遊びで、「ほんとうの」行彦はそれを作るのがうまくなかったので、行彦は(いま、行彦と呼ばれている少年は)編み方を何度か弟に教えてやった。だから教えるこつもよく知っていた。しろつめくさの花冠を、今ではマイケルは上手に作った。木々のいくつかにはマイケルの作ったそれが飾られている。最初に作ってからもう一か月ほども経っているというのに、それは枯れる形跡を見せない。

 マイケルはできた花冠を、いつもまず、行彦の頭にのせる。

 あの日、まだ名前も知らなかったクラスメイト――クラスメイト? が、暴走した日。数え間違えていなければたしか二十九日前。偶然行きついた温室にやってきた行彦が気が狂ったように水を飲んでいるうしろで、マイケルは、所在なさそうに突っ立っていた。振り返って行彦がごめん、と言うと、唐突すぎると思えるほどに唐突に、マイケルは、ひどくはしゃいだ澄んだ声で笑った。くすくすと笑いながらマイケルは走り出した。走るのはあまりうまくなかった。動きなれていない、つたないしぐさで、しかしのびのびとマイケルは走った。広い温室だった。どこまでも、果てがないようにすら思えた。実際なかったのかもしれない。三十二日。行彦は少し、ここのことを理解し始めている。

 この建物は、生きている。

 ――増殖することや、変化することを、生きている、と呼ぶのならば。

 行彦の部屋から温室までの行程は、行くたびにかわる。行彦はただ、温室に行きたい、と思いながら歩いているだけでよかった。そうするといつのまにか、行彦以外だれもいない、なにもない廊下に出る。大きな扉以外なにもない廊下に。

 行彦はそのことを誰にも、……といってもこの三十二日間で、行彦が親しくなった相手は、マイケルのほかにはお節介焼きの残雪くらいだったし、残雪とも慎重に距離を取っていたものだから、向こうもつまらなそうな顔をして、最近はあまり話しかけてこなくなったのだけれど。とにかく、温室のことは、誰にも言わなかった。温室と、マイケルのことは。

「ぼくは、かんむりを、つくりました」

「はい、マイケルはかんむりをつくりました」

 マイケルは、少しあやふやなイントネーションで、しかしはっきりと日本語をしゃべるようになっていた。マイケルはあの日から、温室を出ていない。

 それも仕方ないか、と行彦は思う。

 マイケルはおとなしい、感じやすい子供だった。すぐに泣くし、本当に安心できると思っているときしか笑わない。あの日、帰ろう、と行彦が言うと、マイケルは身を固くして、ひたすら首を振った。言葉ではなく心の声で、いや、いや、と繰り返して言った。しんじゃったっていっていいから、とまで言った。ひとりでいい、ここにいる。そう言うマイケルを残して、行彦はひとりで戻り、マイケルは、とまゆをひそめる残雪に、黙って首を振った。残雪はそれ以上追求しなかった。癖のように、小さく舌打ちをしただけだった。多分、と行彦は思う。ここではよくあることなのだろう。変貌も、消滅も、暴走も、――死、も。

 人間が人間ではなくなる。

 どうして?

「マイケル、みんなが、心配を、している」

「シンパイ。What?」

「ええと……マイケルが、いない、から、さびしいと、言ってる」

 マイケルは、奇妙に大人びた笑いを漏らした。

「嘘だ」

 それは心の声として、行彦に直接届いた。「ぼくのことなんて誰もいらないし、見えないんだ。知ってるよ」行彦は息をつく。手をのばして、引き寄せた。年の近い弟がいるから、と行彦は、他人事のように思った。人との距離感が近すぎる、と言われたことがある。こういうとき、全然ためらわらないでいられるのは、いいことなんだろう、と思う。小さな体を抱き寄せてぽんぽん背中をたたいてあやすと、マイケルは、小さな声で呻いて、顔を行彦にぎゅっとおしつけた。ぼくはこわい、こわい、と、くりかえされる声。ここにいればだいじょうぶ、ここにいればだいじょうぶ。あったかくてあかるくてきれいだから、だいじょうぶ。

 行彦は他人事のように、「この温室も、かつて少年だったのだろうか」と考えている。マイケルが心の声を聴く能力を持っていなくてよかった。きっと死んでしまいそうなほど、怯えただろうから。

 この温室もこの建物も、もしかしたら、もともとは――

 だって、「生きている」。

 腕の中のマイケルと同じくらい。

 ――温室は来るたび、広さが変わっている。

---------------

・△さんとのリレー小説です。次回「越境14

下記相手方からのコメントです。

ここから先は

260字

¥ 100

気に入っていただけたらサポートいただけるとうれしいです。