ταυτολογίαあるいは秋の海の出来事(1)ホテル・ユートピア

 あの年は冷夏のうえ台風ばかりが繰り返し齎され、結果夏と呼べる時間がひどく短かった。一枚だけ買った切手のように明瞭にその短い熱病を覚えている。熱病としか言いようのないあの時間、走って行く兄弟のなか立ち止まった弟が、立ちくらみのように言ったのを覚えている。「おまえの胸にべつの目がある」

 モノレールの終点まで乗ると唐突に海が見える。煤けた階段を降り、曇天に押しつぶされるように歩いていくと、そこは人間が歩くための道ではなかった。海と道とを隔てる防波堤ぎりぎりを車は走り、歩いている人間に向かってあらゆる運転手が苛立っていた。歩いている人間はその道において間違った行いをしていた。彼はあらゆる全てが離れていると感じていた。あらゆる全てから彼は遠く隔てられており、そのくせ、運転手と目が合った瞬間の高揚だけがくっきりピントが合っていて、そのことがむやみに可笑しかった。彼はゆっくり歩いた。あまりにあらゆるものが遠いせいで、まっすぐ進むことが困難なのだった。

 彼は長い間、そこに焦がれていた。

 濃紺の扉が風に揺れている。鍵がかかっていないのだと気づくまでに数秒かかり、それから、彼は転がり込んで、胸いっぱいに埃を吸い込んだ。わざとそうした。咳こむためにそうして、そしてせき込みながら彼は少し泣くことができた。たぶんそのためにそうしたのだろう。あらゆることが全て、そのためだったのだろう。

「おまえの胸にべつの目がある」

 それは今でもそこにある。

 ホテル・ユートピア。馬鹿げた名前だ。そして彼はずっと、ここに来たいと思っていた。

 あの短い夏、サッと冷えた空気が舞い込むゲームセンターの自動ドアで、熱病の側に立った弟が、指をさして言う。振り返った彼の胸、伸びたタンクトップが隠すことができずにいる汗ばんだ胸を指さして言う。彼は指で胸を辿る。そこに何かがある。そこにたしかに何かがあると彼は唐突に気づく。いつからだろう。わからない。いつからだろう。

 その瞬間から彼はもう、目の前の弟にも、ほかの兄弟にも、間違われることはなくなる。

 あのゲームセンターも、ユートピアという名前だった。その言葉は一世を風靡していた。薄っぺらなドレスを着たおしゃまな娘が異国の言葉をちらつかせて歌った季節、その言葉は拡大してゆく世界をしめす適切な言葉として扱われ、あらゆる場所で使われた。彼らの育った場末のゲームセンターすらオープン直前に名前を変えたとの噂だった。ゲームセンターは十年も前に潰れた。ユートピアはもうない。彼を絶望に叩き落した、あの自動ドアはもう開くことはないし、そもそも存在すらしていない。

 埃まみれのなかで咳きこみながら、彼は天井を見上げる。あのゲームセンターと同じ名前を持っているこのホテルはおそらく、その程度の過去に建てられた建物なのだろう。薄い光の中で、彼は天井の染みを数えた。

「どうしたの」

 小さな声が聞こえた。

 十分な時間が過ぎていたようだった。彼は視線だけを声のほうへ向け、行きすぎていく車があまりにも近いことを確認した。道ぎりぎりに建てられすぎているこの建物は、あるいは道の拡張のせいで圧迫されているだけなのかもしれない。ハイビームを背中に浴びて、人物がひとり立っていた。ひどく小柄だが子供なのか大人なのかわからない顔だちをしている。女なのか男なのかもわからない。声だけは甘く、少年と少女のどちらもが出せるアルトだった。

「腹減ってんの」

「……減っているかもしれない」

 人物は首を傾げ、へんなの、と言った。そして片手を彼に差し出した。彼はためらった。なぜためらったのか、自分でもわからないままためらい、手を取ったあとで、あの日、あの夏の日のことを思い出した。そう、彼がそのことを思い出したのは、そのタイミングだった。あの夏の日、変なことを言うなよと言って、彼は弟に指を差し出した。弟はそれを振り払い、一歩、あとずさった。小さな弟が怯えていると気づいていた。些細なことで怯えて泣く弟が、そのときは泣かなかった、泣くことすらできなかったのだと、どうしてあの時既に、知っていたのだろう。

「腹が減ってるなんて、誰でもわかるだろ。わかんないの?」

「わからないんだ」

「病気?」

「そうだよ」

 ある夏、彼の胸に目玉がひとつ生まれて、それは今でもそこにある。

 小さな人物は、彼の手を引いた手の反対側の手に下げた袋を見下ろし、「あんた、」と言いかけて、もう一度首を傾げた。

「名前は?」

「私の?」

「なんて呼べばいい?」

 彼は小さく笑った。「トートロジー」

 外国の言葉をちらつかせて、娘が笑っている。テレビがあらゆる情報を伝達する。外国の言葉を伝える。全て共有される情報の中で、そして私は私であって君ではないことを、あの日の弟の目が告げている。

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