かなむらさん、ちょっと質問したいことが:解釈違いと地雷

質問はプライベッターを利用して受け付けています。

>いつも拝見させて頂いてます。質問というか相談なのですが、地雷カプの存在や押しカプが作中で冷遇されているのが辛く感じ、しかし優遇されているカプが地雷カプで転向しようとしたもののしっくりこなくて、どうすればいいのか分からなくなり心理やカップリングの解釈の違いついて毎日とりとめも無く考えています。自分を変えたいです。もし何かこういう事柄の考えの材料になるような本とか資料とか方法をかなむらさんがご存じでしたら教えて頂きたいです。


>同人をしている者ですが、新参の方(3人ほど)の作品をいいねすることができません。私の好きの範囲が狭く、またTwitterの使い方から滲む人間性も苦手でミュートまでしてしまっています
イベントで界隈の重鎮とも言える方とお話したのですが「新しくきた人は嬉しいし歓迎したい。どんどん人が減ってくのが分かるし寂しいから」と仰っていました。懐の深さというか自カプとそれを愛する人を尊重する心意気が眩しかったです
「地雷」という言葉があり、地雷ならば遠ざけてもしょうがないという風潮がありますが
自カプでも自分が好きではない(気にくわない)作品や作者さんはこれに当てはまるのでしょうか。それともただ心が狭いだけでしょうか


>こんにちは。
自分で二次創作(小説)するようになってから、Twitterで他の方のカプ萌え語り(ストーリーになってる)が苦手になってしまいました。
目にするのに苦痛さえ感じ始めています。
そのカプ自体はいまだ好きで、これからもオフで活動していく予定です。
どうしたんだろう自分…という心境です。
(思え返すと、そう自覚する前も他の方の萌え語りは面白いと感じる時もあれば、脅威に思う時もありました)
かなむらさんはこのような感情はありますか?
どう折り合いをつけていけばいいんでしょう。


>自ジャンルの最新話のたびにご飯していたかなり仲の良い人と、解釈違いというか越えられない認識の齟齬が起きたのですが、フェードアウトしかないでしょうか……その方法もなかなか難しいところです

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 さすがに みんな どうした!!!!!!!! (昨日箱を設置して十個質問が来て四つが地雷・解釈違い関係)

 昨日この題目でゼミまでやったので、このうちふたつは口頭でお返事をしたのですが、昨日お話したことも含め書いてみたいと思います。


 まず二次創作における「解釈」ですが、これはニュアンスとしては「提示された(原作という)意味内容を理解すること・把握すること」というより、「意味内容を自分なりに認識したうえで再定義すること」であるという認識をわたしはしています。思索という意味での解釈というより、たとえば絵画のモチーフをどう認識して要素を抽出して絵画に落とし込むかというほうが、二次創作における「解釈」という言葉のニュアンスとしては近いと思う。

 まあもちろんもっと論文に近いことがやりたくて二次創作をやっている人というのもいらっしゃるだろうし、この時点で「作品を解釈し二次創作に発展させるとは何か」という行動自体の定義がそれぞれにあり、ちょっとずつずれが生じるわけですが、思索することや理解すること自体が目的というより、思索することや理解することを通して成果物を発生させることが目的で解釈という行為を行っているというのが、二次創作における一般的な行動ではないかと思うわけです。

 ここで何の話をしているかというと、二次創作における解釈とはそれ自体が「認識」という「成果物」であるということです。これは二次創作として実際に作品を発表しているかどうかは関係がありません。


 また前提として、二次創作というのはAという解釈とBという解釈を並べてどちらに妥当性があるかを問うような、正解がある種類のものではありません。二次創作における解釈とは「なにを認識し、何を無視するか」という行為を通して成果物を作るための手段であって、解釈それ自体の妥当性を追求していく種類のものでは(基本的には)ないと思います。

 もちろん例外はあって、解釈だけを永遠に突き詰めていくタイプの二次創作者もいらっしゃると思いますが……。


 二次創作における解釈という言葉のニュアンスについては以上ですが、ではなぜ、解釈違いに対するアレルギー反応ともいえる過敏な不快感は発生するのでしょうか。

 ひとつには、「愛するものに相対しているとき、そこにあるのは感情だから」ということではないかと思います。つまり、自分の感情が感覚的に、ほとんど無意識に「解釈している」ために、自分の感情にとって自然な解釈以外の解釈を目にしたとき、「自分の感情を否定されたような感覚を覚えてしまう」ということが起こり得るわけです。

 これはもうけっして幼くはない年代の人間が示す反応としてはピュアすぎると思うのですが、愛するものの前で過剰な感情を抱くときというのは愛以外の感覚が完全に死角になってしまうことが多くあります。また、自分にとってリラックスできるものについて考えたり感じたりしているとき、自分にとって不快なものがそこにあるかもしれないことについて用意を忘れていたということは往々にしてあるでしょう。安心できる自宅に帰ったはずが家族が自分の知らない言語で喋っていたというような不安に襲われることもあるでしょう。

 しかし前提として、二次創作は(基本的には)人と人が少しずつ違う解釈を持ち寄って漠然とした共有の幻想を見る行為です。他人同士であることを忘れずにリラックスしすぎないようにするのが一番、あるいは自分にとっての別の世界観がそこにあることを認識しないで済む方法を模索する(Twitterのミュートやブロックの活用、人間関係の整理など)ことが必要となります。


 べつに解釈違いを見て辛い、他の人の作品を地雷だと感じる、ということ自体はなんら間違ったことではありません。わたしたちはだれしも、あらゆるものを不快に感じる可能性があるし、見たくないものから目を逸らしたくなります。見たくないものを見なくてはならないことはもちろんあるでしょうが、それは趣味の場ではあまり意識しなくてもよいのではないでしょうか。

 大事なのは不快だからという理由で攻撃しないことです。


 という感じで答えになってますでしょうか。個別に返事をしなくてすみません。ここに書いたことは二次創作に限らずって感じで、なぜならわたしたちは世界というモチーフを解釈して認識し定義しながら生きているのであり、すべてのフィクションは現実の二次創作だからです。

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