化野夕陽

化野夕陽

最近の記事

完璧な日曜日

「スクールバスなんて、アメリカの学校みたいよな」  母さんが、別にカッコええ、と思っているわけでもないのは分かってる。けど、他にあまり言えることがないんだと分かってた。学区の小学校は、全校生徒数が三十人を切ってしまい、とうとう廃校になったのだ。何か所かの集合場所にやってくるスクールバスに乗って、僕らは今年の春から街中の小学校に通っていた。初めてバスが来た時に、母さんが呟いた声がずうっとどっかに残っていて、毎朝、青とオレンジのラインで塗り分けられたバスを見る度に思い出す。バラン

    • darning

      「これ、よかったら履いてくれない?」  近くの婚家からやって来た妹が手にしていたのは、ソックスの束だった。 夏の間、少しでも涼しくしたいからと、足首の部分が全くない靴下を買ったのだが、甲が高い妹には、履き口のゴムが強すぎ、辛いのだという。 スニーカーインというその類のソックスは私も愛用している。裸足で直接靴を履くのが躊躇われると、そういう靴下が重宝する。スニーカーはもちろん、サンダルにでも履く。自分の汗で靴を汚す不快と、直に靴に接して汗ばんだ肌がその汚れを絡め取る

      • 「波を織る」

           「波を織る」  それは遠い遠い音だった。 岸近く、砂の捩れる音すら聞こえそうな浜辺の家に住む者も、山に寄って坂道を辿り、蒼の重なりを見下ろして暮らす者たちも、一様にその身に刻んだ音だ。 きっと生まれる前から聞こえていたのだろうけれど、誰もそんなことは考えない。そうして刷り込まれた島の鼓動は、そこに住む者の胸の底で同じ拍を刻んで一生を綴る。  機屋(はたや)の家は浜辺にある。東に造られた戸口に寄りかかって、ユナギは機を織るミオリを眺めていた。決まった動きが目の中で繰り

        • 波の象、貝の紋

           もしもさだめというものがあるのなら、それは日々幾千幾万と打ち寄せる果てしない波の形と同じように、小さな二枚貝の模様と同じように、限りなく似通いながらも、どれ一つとして同じではなく、限りなく近くありながらも、少しずつ違ううねりをなぞりつつ顕れるのだろう。そうして、いつか違う岸へと辿り着くのだ。  出会いがいつであったのか、どこが始まりだったのか、それを知ることはできないのかもしれない。それでも、その瞬間に、これは定まっていたように巡り来るものだと彼女は悟っていた。廻っていたの

        完璧な日曜日

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          紺と真朱の日々を離れ

          紺と真朱の日々を離れ

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          紺と真朱の日々を離れ

          紺と真朱の日々を離れ

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          指紋

           百舌鳥の高鳴きを聞いた。  庭先で立ち止まって、美紀は首を上げた。あの枝か、それともあちらか。聞こえると思っている方向とは全く違う方にいたりする。自分の聴覚もあてにはならないのだと、自覚はしていた。聴覚のみならず、ありとあらゆる感覚が鈍くなる。齢は取りたくないものだと思うが、そう思うことは増える一方で、とんと減る気配はない。何しろ、もうじき八十だ。  朝の冷気に、ふっと息を吹き出してみても、まだ白くはならない。それでも、日中の最高気温が二十度を下回り、最低気温が十度を切るよ

          文舵練習問題⑤

           それは子供の頃の記憶だ。一家は島に住んでいて、当時暮らしていた家からは歩いて一分で海に出られた。砂浜は庭同然で、どこにいても潮の匂いが漂ってくる。その砂浜には一隻の廃船があった。一見、危険に思えるが、近場まで来る波にも揺らがず、砂中に錨で留め置かれてでもいるかのように動かないので、そこは子供たちの遊び場となっていた。一隻、というほどの規模の船ではなかったかもしれないが、一艘、というほどの小舟でもなく、いつからそこにあったのか、ただ時間が閉じ込められたような空間に惹きつけられ

          文舵練習問題⑤

          文舵練習問題④ー2

           滔々と、それは弛まぬ流れであり続け、いつ何時も水音はどこからか響いている。大きな川は大きな時を、小さな川は小さな時を、ゆるゆる刻んで其処此処でささやかな歴史に身を寄せてきた。そうだ、それは近くて遠いただの風景だったのだ。それなのに。誰がこんなに食い入ってこいと願ったか。誰がこの身に関わってくれと頼んだか。  返せ。あの子を返してくれ。それは私の声なのか。  いっそ誰かの不注意だったなら、それを恨み、憎んで生きる縁としよう。それなのに。 いつもの帰り道をいつものように歩いてい

          文舵練習問題④ー2

          文舵練習問題④ー1

           足の指の先を蚊に喰われた。痒いことも痒いけれど、そのあたりが腫れて硬くなっている。なんだか痒さが無暗やたらと強烈に痼っている。痒い、というか痛い。それはおそらく、あまり余分な脂肪がなく、必要最低限の筋肉だけでできている場所だからなのだろう。痒い、というか痛い。これが、柔らかい腹回りだとか、内太腿だとか、そういう場所であったなら、痒みは、ただただ痒いだけで終わっていて、しばらくぼりぼりと掻いていればそのうち忘れてしまう程度のものだ。でも、足の指先なんかがぶよぶよ弛んでていいわ

          文舵練習問題④ー1

          文舵練習問題③ー2

          なぜかニヤニヤしている担任から新年度を担当するクラスの名簿を渡されて、ざっと目を走らせると、眉根が動くのを感じつつペンを手探りで見つけ出そうとしてはなかなか掴めず、仕方なく手元に目を落としてようやく落としものだった鉛筆を一本を選り出し、また名簿のアタマに目を戻してしまう、というのを二度ほども繰り返す羽目になったのは、そこに書かれているキラキラネーム、というほどでもないが、種々様々な漢字や仮名に弄られまくった新一年生のお名前の群れのせいだったのだが、なんでまた眉間に皺を寄せてい

          文舵練習問題③ー2

          文舵練習問題③ー1

           風は相変わらずごうごうと喧しい。扉も壁も分厚く、その音は遠い。冬はなぜ長いのかと私は思う。緯度が高いから、と母は言う。そうだけど、どこにだって冬はある。手を止めると、また風が唸った。息をつき、私は作り目を続ける。母の手はするすると網目を繋ぐ。その足の指が器用に床の雑誌を捲る。足元に遣る、その眼はよく見える。視線は雑誌の文字だけを追っている。でも、その手は決して間違わない。ここじゃ、それは当たり前のことだ。でも、私の指はまだ間違うのだ。風が唸って、どこか体が軋んだ。昔は、ただ

          文舵練習問題③ー1

          文舵練習問題①ー2

           河原の白い石は熱くて、サンダルの底からでも火傷しそうに感じるのに、谷間の空気は取り澄ました清涼そのもので、微塵も熱を感じない。でもこれだけ石が熱いのだからと安心して水に入ると、飛び上がりそうに冷たくて、大袈裟なほど身震いした。身震いなんてものは、心の話をする時に使う言葉だとばかり思っていたが、何のことはない、動物が水を払うのと変わらない速さで、本当にぶるぶるっと竦み上がるのだ。慌てて石の上に上がってみれば、その熱にほっとするのも束の間、それはそれですぐにじりじりと熱くなる。

          文舵練習問題①ー2

          文舵練習問題②

           祝言の日が決まったと言ってもそなたはなにも言わぬばかりかただの一瞥もよこしはすまいよそんなことは分かっているが致し方ない一体どうすればその眼はこちらを向いてくれるのか最後にこの目をまっすぐ見たのはいつのことだったのかああそれはそれは随分昔だったように思えてならない遠い遠い昔のことだ幼い頃の無邪気がその眼をこちらに向けさせたのだと思い至っては何やらとてつもなく悲しくなるのはどういうものか子供の眼差しは本当に真っ直ぐでその言葉もまた真っ直ぐでお前は私を娶っておくれかと何も知らず

          文舵練習問題②

          文舵練習問題① 問1

           暮れかける晩夏の庭は切ない色だ。   ほんの七日ほど前までは、たとえ暦の上では秋がどうのと言われても、こともなげに紅を晒して夏を背負っていた百日紅。今や何処にも色を残すことを許されず、消え残った陽炎に煽られて揺らめくばかりだ。不意にエナガの群れがやって来ては梢を揺らす。小さな小さなその鳥は、ガラス一枚隔てただけで、ひとが在るのがわからない。ひともまた、その群れがいったい何羽なのだかわからない。今いたそれは、こちらの眼よりも早くに動く。そこにいた、その影は、いつもう一羽と重な

          文舵練習問題① 問1