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ディズニーのイマジネーション、その本質をカリカチュアライズするキワモノの裏に見える、ディズニーへの狂おしい愛 Vol.2


『エスケイプ・フロム・トゥモロー』公開まであと16日。黒い夢の国の新しい映像も公開されたね。もうみんな観た?
ここで観られるからね。ハハッ!

世界で最も有名な夢の国の、表も裏も知り尽くした、新井克弥先生というメディア学のせんせいが『エスケイプ・フロム・トゥモロー』について語る、全4回の連載。今日が、第2回目の配信だよ。これを読むと、より映画が楽しく見られるはず!「ホンモノのディズニーファンなら必見!」と新井先生も太鼓判を押す『エスケイプ・フロム・トゥモロー』のおはなしの裏の裏を、大解剖してもらうよ♪ちょっとアカデミックだけど、映画を見る前に読んで、おともだちをリードしてね!(by 黒ミッキー)


“imagination(イマジネーション)”の本質とは

「想像(imagination)ほどパワフルなものはない!」
そう言ってウォルトは厳格なカトリック的宗教観に基づきながらimaginationのなすがままにディズニー世界を押し広げた。それがディズニフィケーションに基づく相互矛盾のない世界観の創造(creation)だった。一方、本作の主人公ジムはパーク内で若い女性への性的な、そして解雇された会社への復讐を妄想する。そうすることでウォルトが創造したディズニー世界を勝手に書き換えていく。

この二つ、一見対立するように思える。ところがウォルトの「創造(creation)」も、ジムの「妄想(delusion)」も、ともに「想像=imagination」が生み出したもの。表面的には前者は白い想像、後者は黒い想像。だが、この二つは結局のところ同じものの二側面。そして、それを一体化させて体現していた人物こそウォルト・ディズニーに他ならない。

“ディズニーランド”という名称、よく考えてみれば奇妙な感じがしないだろうか。マンガ「ドラえもん」に登場するジャイアンの趣味は歌うことだが、これを披露するために彼は「剛田武リサイタル」を開催する。つまり「俺(ジャイアン)のリサイタル」。ディズニーランドも同じだ。つまり「俺(ディズニー)の遊園地(ランド)」。どちらも自らのひとりよがりな欲望によって世界を構築し、これを他者に強引に、しかも徹底的に押しつける。二つが同じに見えないのはジャイアンが周囲から迷惑がられるのに対し、ウォルトの場合は世界にこの世界観が認められているからに過ぎない。こう考えてみると、ウォルトによるディズニーという「きれいごと」の世界の創造、実はエキセントリックでマッドな妄想によって支えられていることがわかる。imaginationは創造であり妄想であるのだ。(第3回に続く。次回配信予定:7/4)

著者 新井克弥 プロフィール                                                                   メディア研究者。関東学院大学文学部教授。ブログ「勝手にメディア社会論」を展開中BLOGOSブロガー。メディア論、記号論、社会心理学の立場から、現代のさまざまな問題を分析。アップル、ディズニー、バックパッカー、若者文化についての情報も多数。

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