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YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー 蜂須賀孝治編

契約満了という人生でも比類のない失望を味わった男を、再び奮い立たせてくれたのは、やはりサッカーだった。今はこの新しい土地で、チャレンジしたいことがある。自分にできることはすべて注ぎ込んで、サッカーで秋田に熱狂をもたらしてみせる。

「秋田はハピネッツが強くて、バスケの文化は凄く根付いていると聞いているので、ハピネッツともいろいろ協力しながら、一緒にスポーツで秋田を元気に盛り上げていけたらいいですし、秋田にブラウブリッツ秋田を根付かせて、秋田をサッカーで盛り上げたいというのが、今の一番の夢かなと思います」

真摯に努力を積み上げてきた、33歳になるブラウブリッツ秋田のニューカマー。蜂須賀孝治はJリーガーになって初めてとなる移籍を経て、自分に手を差し伸べてくれたこのチームで過ごす日常へと、衰えない情熱の炎を燃やし続けている。

蜂須賀 孝治(はちすか こうじ)
1990年7月20日生、栃木県出身。
2024年にブラウブリッツ秋田に加入。
ポジションはディフェンダー。
https://twitter.com/koji_hachisuka
https://www.instagram.com/koji_hachisuka/

3つ上の兄の影響もあって、気付けばボールを蹴っていた蜂須賀少年は、小学校2年生の時に大平南JFCで本格的にサッカーをスタート。「フォワードで足も速かったので、ディフェンスラインギリギリにいて、常にゴールを狙っていました。点を獲りまくっていましたね」と自身でも振り返るように、俊足のストライカーとして地域でも名を馳せていた。

もともと大平南JFCと並行しながら、ホーリーホックとヴェルディのスクールにも通っていた蜂須賀は、6年生の時にホーリーホックのスクールが結成したホーリーホックSSとちぎというチームに加入。同時期にはその実力が評価され、当時のチームメイトであり、今は大宮アルディージャに在籍する富山貴光とともに関東トレセンへ招集される。

「情けないですけど、もうビビっていました(笑)。中でも比嘉(厚平、現:モンテディオ山形アカデミーコーチ)、イブ(指宿洋史、現:アデレード・ユナイテッドFC)、(齋藤)学(現:アスルクラロ沼津)の3人が凄かったです。学は短い期間でしたけど、ベガルタでも一緒にやれたのは本当に良かったですね」。そのままナショナルトレセンにも参加したものの、周囲のレベルの高さに衝撃を受けたという。

中学時代は兄と一緒にスクールにも通っていたヴェルディSS小山でのプレーを選択したが、周囲も身体的な成長を遂げていく中で、小柄な方だった蜂須賀はなかなか思うように力を伸ばしていくことが叶わない。加えて今から思い返せば、小学生時代の“経歴”から来るプライドが邪魔をしてしまうこともあったようだ。

「小学生の頃からナショナルトレセンに入っていたこともあって、自分でも『県内では一番上手い』と思っていたので、それが過信になって、傲慢になっていた部分もありますね。中2ぐらいから関東トレセンにも選ばれなくなって、フィジカルで周りに全然追い付けなくなっていきましたし、サッカーはずっと好きで頑張っていたつもりでしたけど、なんか熱くできていなかったなと思います」

それでも自信は失っていなかった蜂須賀は、高いレベルでのプレーを求めて関東のJクラブユースや強豪校のセレクションを受け続けるも、ことごとく不合格を言い渡される。「もう行くところがないな。どうしよう……」。そんな時にヴェルディSS小山の先輩たちが複数進学していたある高校が、初めてインターハイで全国大会へ出場する。それが隣県の群馬で頭角を現してきていた桐生第一高校だった。

「それを知って、『ああ、桐一もアリだな』と思ったんですよね」。自宅から電車で通えない距離ではなかった上に、同校は父の母校でもあった。セレクションを受けると、とうとう合格を勝ち獲ることに成功。蜂須賀はもともと想像もしていなかった群馬の新鋭校の門を叩く。

最初はBチームからのスタート。部活特有の上下関係も学びながら、少しずつ高校生活に馴染んでいった6月にシンスプリントを発症し、練習からの離脱を余儀なくされたが、これが本人にとってはまさに“怪我の功名”となった。「休んだ時に背がメチャメチャ伸びて、秋ぐらいに復帰してからはトップチームに入って、選手権の試合にも出られるような立ち位置になったんです」。県内最大のライバル・前橋育英高校と対峙した選手権予選準決勝では、1年生ながら右サイドバックでスタメンに抜擢。試合には負けたものの、個人としてのパフォーマンスには一定の手応えを得たそうだ。

今でも慕う恩師との出会いも語り落とせない。「(小林)勉先生には本当に良くしてもらいました。僕は電車で通っていたんですけど、勉先生が『ハチ、今日は寮に来い。ゴハンを食べさせてやる』と言って、練習が終わったら寮に行って、夕飯を食べて帰る時もありました。勉先生は僕の人生に影響を与えてくれた1人です」。小林勉総監督が注ぐ愛情は、選手たちにも確実に届いていた。

「メチャメチャ記憶に残っていますね。メチャメチャ熱い夏だったなと」。そう思い出すのは、2年時のインターハイ。県予選で前橋育英を撃破した桐生第一は、全国大会の切符を堂々と獲得する。舞台は佐賀。非日常の体験が17歳にとっては、とにかく刺激的だった。

「本当に新鮮過ぎて、ずっと興奮状態にいました(笑)。最初に京都橘に勝って、関東第一にはPKで負けましたけど、メンバーに入れなかった選手も佐賀までバスで応援に来てくれましたし、親も飛行機で見に来ていた中で、全国の試合を2試合も見せられて、本当に楽しかったです」。ピッチ内外で独特の空気を味わった真夏の経験は、忘れられない最高の思い出だ。

このインターハイは在学中に出場した唯一の全国大会となる。高校最後となる3年時の選手権予選。決勝では前橋育英相手に先制しながら、最後は2-4で敗戦。蜂須賀の高校サッカーは幕を閉じたが、自分の中にはやり切った感覚があった。

「決勝で力を出し切って、『ああ、高校サッカー終わったな』と思って、その次の日の朝に実家で起きた時、伸びをした直後に貧血か何かで倒れたんです。お母さんの声が遠くから聞こえる感じで、そのまま病院に行ったんですよ。本当にやり切った感じでしたね」。サッカーに打ち込んだ桐生第一での3年間が、その後のサッカーキャリアへ繋がっていくかけがえのない時期だったことは間違いない。

それは運命を大きく左右する“受験失敗”だった。第1志望は高校の1つ上の先輩に当たる黄大城(元・京都サンガF.C.)も進学していた慶應義塾大。夏にはサッカー部を一時休部して栃木から都内の学習塾へ通うなど、勉強に熱を入れていたにもかかわらず、AO入試の結果はまさかの不合格となる。

「目の前が真っ暗になりました。親にも申し訳ないですし、もう壊れてしまって『サッカーはやめて働こう』と思ったんです。でも、チームメイトから『ハチはサッカーを続けた方がいいよ』と言ってもらって、そこで正気に戻りました(笑)」。ここで新たな進路に導いてくれたのは“恩師”の存在だ。

「選択肢にはまったくなかったんですけど、勉先生が『仙台大はどうだ』と教えてくれたので、セレクションを受けて、チームメイトの黒田(涼太)と一緒に仙台大へ行きました。ここは人生を大きく左右しましたね。仙台大に行っていなかったら絶対にプロになれていなかったので」。入学したのは仙台大。そこから15年もの時間を杜の都で過ごすことになるのだから、人生はわからない。

「メチャメチャ熱い夏でした。最高でしたね」。そう振り返るのは、2年時の総理大臣杯。不思議と“2年生の全国大会”には縁があるようだ。夏の大阪。仙台大は初戦で同志社大を退けると、準々決勝で激突したのは慶應義塾大。蜂須賀にとってはまさに因縁の相手と戦うことになる。

「慶應には死んでも勝ちたかったので、もう最高でしたね。漫画みたいな熱い試合に勝つことができて、『慶應を落ちて良かった』と思いましたし(笑)、『神様っているんだな』って」。スコアは3-2。先制され、3点を奪い返し、1点差に迫られながらも逃げ切るというスリリングな勝ち方で、個人的なリベンジを達成してみせた。

当時の仙台大には、押しも押されもせぬスーパーエースが躍動していた。「あの大臣杯はやっと『仙台大には良い選手がいるぞ』ということをJのスカウトに知らしめた大会だったんじゃないかと。でも、もう奥埜さんがずば抜けていたので、奥埜さんのついでに僕たちを見てもらえるところもあったと思います」。奥埜博亮(現:セレッソ大阪)。のちにベガルタ仙台でも共闘することになる1つ上の先輩は、いつも抜群に凄かった。

自身でもターニングポイントだと認める試合は、3年生の総理大臣杯。流通経済大との一戦を翌日に控えた蜂須賀の姿は、大阪の鍼灸院にあった。「その時の僕はふくらはぎを肉離れしていて、ジョギングもできないぐらいだったんですけど、大阪に鍼の凄い先生がいると聞いて、7時間ぐらい治療されたんです。ずっと寝たままで体勢も変えられず、右のふくらはぎだけで20本ぐらい鍼が刺さっていて(笑)」

迎えた流通経済大戦。1点をリードされた後半から途中出場した蜂須賀は、中盤のアンカーに入るとハイパフォーマンスを披露し、チームも同点ゴールをゲット。最後はPK戦で敗れたが、前日まで走ることもままならなかった男は、この一戦を境に多くの関係者の注目を集める存在へと駆け上がる。

「当時の話を聞くと流大を見に来たスカウトの人たちが『蜂須賀がいい』と言ってくれていたみたいで、コーチの瀬川(誠)さんも『ハチにとってのターニングポイントは流大戦だったと思うよ』と。僕は『負けちゃったけど、PK戦まで行ったし楽しかったな』みたいな感じだったんですけど(笑)、そこからデンソーカップでベスト11にも入りましたし、ベガルタのキャンプも行けましたし、やっとプロというものが明確に見えたんです。鍼をされている時は『メチャメチャ痛いし、7時間って何なの……』と思っていたのに(笑)。本当に人生って不思議です」

4年生の6月にベガルタの特別指定選手に登録されると、以降は大学よりもベガルタの練習に参加する回数が多くなる。「ベガルタの活躍は近くで見ていましたし、震災からの復興のために希望の星になると頑張っていたクラブだったので、『もうベガルタでやらせてください』という感じでした」。実際は他のJクラブからもオファーが届いていたが、もう心は決まっていた。

2012年12月1日。J1最終節。FC東京戦のベンチメンバーに入っていた“36番の大学4年生”は、残り10分で味の素スタジアムのピッチへと送り出される。「メチャメチャ足が重くなった記憶があります。大声援の中で今まで感じたことのないプレッシャーがあって、『この中でJ1の優勝争いをしていたんだな』って。その試合は自分にとって“はじめの一歩”の試合ですし、忘れられないですね」。そのJリーグデビューから5日後にベガルタから発表されたのは、加入内定のリリース。予期せぬ形で辿り着いた仙台の地で、蜂須賀はプロサッカー選手としての人生を歩み出す。

ルーキーイヤーとなった2013年シーズンは、J1リーグで20試合に出場。決して悪くない数字に思えるが、本人はプロの厳しさを痛感していた。「一瞬の自分のミスで失点したりするようなことがざらにあったので、何も通用しない感じでしたね。その日の調子によってすぐ足が攣ってしまったりすることに凄く悩んでいて、そういう面でも順応するのが大変でした」

さらに大きな試練は唐突にやってきた。プロ1年目のリーグ戦が終わり、天皇杯に向けてトレーニングしていたある日のこと。ポゼッションの練習中にターンした瞬間、右ヒザに不思議な違和感を覚える。

「僕が試合に出ていたのはシーズンの序盤から中盤に掛けてで、そのあとは結構メンバー外が続いていて、天皇杯に向けての期間で『アピールしないと』という気持ちはあった中で、今までにない感覚を膝に感じて、1回屈伸して『何だったんだろう?』と思ったんですけど、トレーナーからは『今日はやめておこう』と言われて、翌日に病院へMRIを撮りに行ったんです」

最初は半月板の軽傷という診断だったが、MRIの画像を見たトレーナーがセカンドオピニオンを勧めたことで、川崎の関東労災病院で再診断を受けたところ、下された結論は前十字靭帯断裂。全治約7か月の重傷だった。「帰りの新幹線のはやぶさで泣きましたね。『何であんなに行っちゃったかな』とか『昨日に戻らないかな』とか、何回も思っていました」。年が明けた1月に手術。そこからは長いリハビリの日々が始まった。

ただ、入院していた時期には意外な出会いにも恵まれる。「内山先生という名医がいるので、スキーとか体育の授業で前十字を切ってしまった学生の患者がひっきりなしに来るんです。そこで学生たちと仲良くなって、夕飯の後にUNOをしたりして、それはマジで楽しかったです(笑)。中にはサッカー好きな子がいて、『あれ?ベガルタの蜂須賀選手ですよね?』『え?良く知ってるね』みたいなこともありましたし、今でも連絡を取っている子もいて、本当に不思議な出会いでした」

復帰戦はケガからほぼ1年後。2014年11月29日の徳島ヴォルティス戦。69分に菅井直樹との交代で、蜂須賀はユアスタのピッチへと走り出す。「手術後は自分の足だという感覚を取り戻すまでに本当に大変で、そこからピッチに戻ってこられたので『自分をほめてあげたいな』と思いましたし、やっぱり『本当にいろいろな人に支えられてピッチに立てたんだな』という感謝が強かったです」。サッカーが普通にできることの意味を、今まで以上に噛み締めるきっかけになった経験だった。

30歳になって臨んだ2021年シーズンは、志願してキャプテンに就任した。「コロナだったり、選手の不祥事だったり、本当にいろいろあって、『もう負のスパイラルに入っているな』とは感じていたんですけど、奥埜さんをはじめとしてたくさんの主力選手が出ていってしまって、本当にここからチームを引っ張っていくのは、今まで生え抜きでやってきた自分しかいないと思って、『キャプテンをやらせてくれ』とテグさん(手倉森誠監督)に申し出ました」

「初めてのキャプテンで、練習中も盛り上げたり、『全員の意見を聞いてチームを良い方向に持っていかないとな』とかいろいろ考えていた中で、あまり試合に絡めなくなって……。でも、『何で使ってくれないんだ?』ということは言うべきではないと考えていましたし、それよりも今出ている選手たちを勇気付けたいと思って行動していたので、その時は心と体が凄く苦しかったですね。自分も良いパフォーマンスを出せず、キャプテンとしてチームを救うこともできず、降格が決まってしまって、本当にサポーターの方々には申し訳なかったなと今でも思っています」。結果は無念のJ2降格。チームを引っ張り切れなかったという後悔は、いまだに蜂須賀の心の中の一部を占めている。

J2で送った2シーズンは、自身が直面する現実に抗いながら、いつもチームのことを考え続けていた。「だんだんと試合に出られる時間も短くなって、『出ている選手よりも絶対に劣っていない』『絶対にオレの方がいい』と思いながらやっていましたけど、絶対に認めたくはなかったものの、『なかなかチームに貢献できなくなってしまったな』と」

「でも、試合には出られなくても、どうにかしてチームがJ1に上がるために必要だと思うことをやっていました。それこそ後輩に経験を伝えたり、ベガルタ仙台というクラブが少しでも大きくなるように、こういうことをしたらどうかと提案したり、その時の自分がピッチ内外でできること、考えられることはすべてやったなと思います」。J1復帰を果たせなかった2023年シーズンが終わると、蜂須賀はクラブから契約満了を告げられる。

「本当に幸せなこともあり、苦しいこともあり、妻にも出会えて、子どもも生まれて、ベガルタでの12年間はもう自分の人生そのものですね。近年は苦しい出来事の方が多かったですけど、たくさん楽しいことも嬉しいことも経験しましたし、自分の人生の中で欠かせない時間だったなと思います」。特別指定時代を含めれば12年間を過ごしたベガルタでの日々は、常に全力で走り続けてきた自負がある。仙台で出会ったすべての人への感謝は尽きない。

ベガルタを去る時が来たことは、代理人からの電話で知った。「人生最大の絶望と失望を感じた」という蜂須賀の心に、もう一度希望の明かりを灯してくれたのは、小学生時代からその存在を知る、同い年の友人だった。

「代理人から電話が来て、『ハチ、来季ないわ』というのを聞いた時、たまたま学とゴハンに行っていたんです。アイツは同い年ですけど、ワールドカップに出場したり、海外に行ったり、マリノスからフロンターレに移籍したり、僕より何倍も濃い経験をしてきているじゃないですか。その学に『ワンクラブマンって外から見たらカッコいいけど、1つのクラブで経験することよりも、いろいろなクラブでいろいろな経験をした方が、人生にとっては絶対に深みが出るよ』と言われたんです」

「それを聞いて『いや、確かにそうだな』と思ったんですよね。満了と言われなければ、たぶんベガルタにずっといたでしょうし、他のクラブでプレーする経験は今後の人生を考えても得られなかったので、そこで失望から希望が見えて、『これは逆にチャンスなんじゃないかな』と思えたんです」。齋藤学の一言が、蜂須賀に新たなモチベーションを与えてくれた。

だが、なかなか新天地は決まらない。「何チームからかオファーを戴いたことは凄く嬉しかったですけど、『本当に心からそこでやりたいのか?』と問うた時に、全力でイエスとは言えない状態が続いていたんです……」。実は以前から気になっていたチームがあった。それは東北社会人リーグ1部に所属しているコバルトーレ女川。ベガルタと同じ宮城県に居を構える社会人チームである。

「ベガルタもそういうチームでしたけど、女川も震災から被災地の真ん中でずっと頑張っているチームで、こういうベテランと呼ばれる年齢になって、そういうところでやるのもいいんじゃないかと思ったのと、なおかつ高校の同級生の黒田がいるんですよ。それで複数戴いていたオファーの期限があと1日というところで、黒田にFMを紹介してもらって、『このままオファーがなかったら是非女川でやりたいです』と連絡したんです」。ところが、もうほとんど心がコバルトーレに傾いていたタイミングで、思わぬオファーが舞い込んでくる。

「秋田からオファーが来るかも!」。1か月前と同じ代理人からの電話が、今度は福音として体の中に響き渡る。

「今まで東北を、宮城を盛り上げたいと思いながら頑張ってきた中で、同じ東北のチームが今年34歳になる選手にオファーをくれて、自分の可能性に賭けてくれたんだなと。その時に心が『秋田でやりたい』と動いたのを感じたんですよね。吉田監督にも『年齢なんて関係ない。絶対にまだまだ伸びる』と言われて、『もう自分のすべてを秋田に捧げたいな』と思ったんです」。ようやく頑なな心は動く。コバルトーレへ丁重に断りを入れ、蜂須賀はブラウブリッツ秋田へと加入することを決断した。

運命は巡る。アウェイでの3試合を終え、ようやくソユ―スタジアムで迎えるホーム開幕戦。ブラウブリッツが対峙する相手は、ベガルタに決まっている。「ビックリしましたね。誰か仕組んだんじゃないかと思いました」と笑う蜂須賀は、今からその日を心待ちにしている。

「開幕戦はどことやってもしっかり戦わなきゃいけないですけど、それがベガルタだったら意識しないと言ったらウソになりますよね。だからこそ、ベガルタのサポーターにも秋田のサポーターにも、『蜂須賀、まだまだやれているな。凄いな』と思ってもらえるようなプレーをピッチで表現したいと思っています。その上で、やっぱり勝ちたいですね。あの時の慶應の試合みたいに」

きっとみんなが楽しみに待っている。背番号4の青いユニフォームに袖を通したディフェンダーが、ソユスタデビューとなるピッチを全力で駆け抜け続ける姿を。そして試合が終われば、秋田の地を自らの戦う場所に選んだ33歳の奮闘へ、スタジアム中から青と黄色の万雷の拍手が降り注ぐことも、また容易に想像がつく。蜂須賀孝治とは、いつだってそういう男なのだ。

文:土屋雅史
1979年生まれ、群馬県出身。
Jリーグ中継担当や、サッカー専門番組のプロデューサーを経てフリーライターに。
ブラウブリッツ秋田の選手の多くを、中・高校生のときから追いかけている。
https://twitter.com/m_tsuchiya18

YURIホールディングスPresents プレイヤーズヒストリー
ピッチ上では語られない、選手・スタッフのバックグラウンドや想い・価値観に迫るインタビュー記事を、YURIホールディングス株式会社様のご協賛でお届けします。
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