10/19 アウトローの物語としての日本語ラップ

昨日の続き。MSCやSCARSのようないわば「反社会的」なグループが、アメトーークのような今のテレビで放送出来ないのは仕方がない。違法ドラッグの使用だけでピエール瀧が出演した映画がお蔵入りになり、作曲に殆ど関与していない電気グルーヴの音源までも出荷停止になる世の中なのだから、作り手としても致し方ない面があるのだろう。ただ、では日本語ラップからイリーガルな要素を排除した時に聞くべきものとして誰が・何が残るかというと、それ程多くは残らないのではないか。名のあるラッパーでイリーガルなトピックを扱わないラッパーというと、PUNPEEやRー指定くらいではないだろうか。かつての東映ヤクザ映画のように、今や日本語ラップは日本社会のアウトロー達の音楽であるように思える。

そしてアメリカでギャングスタ・ラップを聞いた白人のキッズが喝采をあげているように、アウトローの物語としての日本語ラップを、言い方は悪いが安全圏にいるリスナーがが半ば野次馬根性的な感覚で持って受容している、というのが今の日本語ラップを取り巻く現状ではないだろうか(だからこそ日本語ラップオタクという言葉が存在する)。この決定的なラッパーとリスナーの立場の違いがここのところずっと気になっている。野次馬根性的な感覚だったり好奇心を全面否定する気はない。こうした関心こそが、自分の世界や価値観を広げる助けになるのは間違いないからだ。ただ、彼らの表現をただ面白おかしく受容・消費してそれでお終いになってしまうのであれば、それは文化的な搾取であり、カルチャーの在り方として不健康な状態に思える。これはニート東京のコメント欄を見れば一目瞭然のはずだ。彼らのフッドや「仕事」、ライフスタイルに注目すべきものがあれば、それを受けて現実に反映するアクションを起こすことが必要なのではないだろうか。文章を書くことでも、選挙に行くことでも、本を読んで知識を得ることでも、自分がマイクを握ることでも、何でもいい。磯部涼の文筆活動は、その点で一貫して筋が通っていて素晴らしい。全てのリスナーが『ルポ川崎』のような作品を作れと言っている訳ではない。ただ、ひたすら受け身でラッパー達の言葉や境遇をネット上でネタとして消費するだけの楽しみ方は今すぐ止めるべきだと思う。

#日記 #雑記 #コラム #音楽 #日本語ラップ

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