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スコットランドのseven ill years(1690年代)

17世紀の終わり、中央ヨーロッパでは大飢饉が発生しました。
1645年から1715年は、太陽黒点の観測数が著しく減少し、太陽磁気活動が弱まったマウンダー極小期で、ヨーロッパ、北米大陸では冬は著しい酷寒、夏は冷夏が続いていました。

炭素14生成量の変遷から描かれる過去の太陽活動

また大規模な火山噴火も続き、アイスランドのヘクラ(1693年)、インドネシアのセルア(1693年)、アボイナ(1694年)火山が大噴火しています。
噴火により発生した硫酸塩エアロゾルが地球のオゾン層に到達して、紫外線が減ったことで寒冷化をもたらしたと推測されています。

そういえば、あのウィリアム・ヘンリー・"ビル"・ゲイツ3世が、温暖化を解消するために太陽光を遮る計画を立てているそうですが、火山の大規模噴火に匹敵することだとすると・・・・核?
EUは太陽を遮ることによって「地球温暖化と戦う」というビル・ゲイツの計画を支持します-Slay News

とくに1690 年代は小氷河期の最低点であり、より寒く雨の多い気候でした。1695年から1697年にかけては、エストニア、フィンランド、ラトビア、ノルウェー、スウェーデンで大規模な飢饉がありました。

1695年の夏は大雨がたびたび降り、冷夏だったため穀物の成長が異常に遅く、その結果、次の年の播種に必要な種子が不足しました。
1695年から1696年の冬は非常に寒く、3月に降霜と大規模な洪水が起き、夏に再び大雨が降り収穫が遅れたのが飢餓の原因とされています。

人々は食べ物を求めて路上で物乞いをし、人食い行為も報告されています。
フィンランドでは15万人、エストニアでは7万人死亡し、1697年の春には町に死体が散乱したと伝えられています。


スコットランドのSeven ill years

Seven ill years(七凶年)は、1690 年代にスコットランドで広範囲かつ長期に渡って飢餓が続いた期間を指す用語で、創世記のエジプトの飢餓にちなんで命名されました。

スコットランドにおいて1690年代は、過去750年間で最も寒かった10年間だったそうです。
北半球を襲った異常な寒波は、スコットランドでは全人口の10〜15%を失うという輪をかけて大きな被害に見舞われました。アバディーンシャーという地方では、死亡率が25%に達した可能性があるそうです。

1695年~1699年の不作は、九年戦争(大同盟戦争1688年 - 1697年)によって引き起こされた経済不況と相まって、深刻な飢饉と過疎化をもたらしました。

1689 年のスコットランドの地図

スコットランドは、1648年にイングランド内戦でオリバー・クロムウェルに征服されたのち、イングランド共和国と連合を組んでいましたが、政治的な統一は未だなされていませんでした。
経済規模が小さく、輸出の範囲も限られているスコットランドの立場は弱く、造船などかつて発展していた産業は大幅に衰退していました。
さらに、1651年航海条令によってスコットランドの海運も制限されたため、イングランドへの経済的依存は一層進みました。

イングランド共和国が航海条令を発した流れは、イギリスについての記事に書きますが、イギリスが自国の貿易・産業をオランダの脅威から守る(ぶっちゃけオランダを排除する)ためでした。

航海条令は、自国の利益保護のための貿易統制法。イギリスが自国の貿易、及び産業をオランダの脅威から守るための重商主義政策。
イギリスへのアジア・アフリカ・アメリカからの輸入はすべてイギリス船によること、ヨーロッパからの輸入はイギリス船かその生産国、あるいは最初の積出国の船によると定めた。
反発したオランダとの間で17世紀後半に3次に渡る英蘭戦争が起きた。航海法は、19世紀に自由貿易論が強まり、1849年に廃止された。

航海条例によってスコットランドも外国とみなされ、ロンドンや植民地の港から締め出されることになり、スコットランドの経済は徐々に衰え、困窮にあえぐようになりました。

1660年の王政復古によりチャールズ2世が即位し、君主制がスコットランドにも返還されました。
それにより経済に落ち着きが見られ始めましたが、1670年から1690年にかけてのカトリックとプロテスタントの激しい対立によって、国内の消耗は激しかったようです。

長くなるのでここでは割愛しますが、スコットランドにおける宗教対立も、遡ればヘンリー8世がローマカトリックと決別して始めた宗教改革を抜きにしては語れません。
スコットランドとイングランドだけの問題でもなく、スコットランドと同盟を結んでいたフランスも巻き込みました。

救貧法*社会保障制度の始まり

1689年から1691年にかけて、フランスの保護主義(国が輸入量を制限したり高い関税をかけることによって自由な貿易を制限をする)と、スコットランドの牛貿易の変化により、バルト三国とフランスとの貿易が低迷しました。
そのうえ、1695年、1696年、1698年、1699年とほぼ毎年のように農作物の不作が続き、飢餓がスコットランド全土に広く蔓延することになります。

特に気象条件の厳しい北部のハイランド地方でインフレ、深刻な飢餓、人口減少が発生し、多数の人々が餓死しました。
1698年には全国の道路で死体が発見されたという報告があり、スコットランドの人口の6分の1、約20万人が浮浪者となったと推定されています。

主力穀物であるオートミールはバルト海貿易に依存していたため、航海条令が打撃となり、価格が平均の166.7%に達した地域もあったそうです。
人々は飢えを紛らわすため、雑草や腐った肉を食べたと伝えられています。

旧スコットランド救貧法(1574年ー1845年まで)は、1575年に定められた財産条約を通じて制定されたもので、その2年前に可決されたイギリス法がモデルになっていました。

<1601年以前のイギリスの救貧法>
宗教改革以前は救貧は教会の役割で、キリスト教的慈善心に基づいて行われていました。キリスト教では「貧しいことは神の心にかなう」とされていたので、貧しい人に手を差し伸べることは善行と見なされていました。
宗教改革では「貧しいことは怠惰のゆえであり、神に見放されたことを表す」という見方が広がり、ヘンリー8世は怠惰で貧しい健常者貧民には鞭打ちの刑を加えました。

そういった健常者貧民への苛烈な待遇が問題視されるようになったため、イギリスでは1572年に健常者貧民への鞭打ちを禁じ、各教区・都市から救貧税を徴収し、それを資金として、老人や身体障害のある人にはお金を支給して生活を援助し、働く能力のある貧民には出来るだけ働くように「ワークハウス」での強制労働が与えられました。

しかし、スコットランドの場合は、イギリスのように健常者の貧困層に仕事を提供する試みはなかったそうです。

救済は教区によって行われ、物資の支援は地元住民に限定されていました。
また救済対象は、高齢者、病人、病弱者といった働けない者に限定し、教区に属さない人々は出生地に送還されるか、家畜小屋に入れられるか、その他の罰が与えられました。
手品師、手相占い師、家庭教師を含む不安定な収入の者にも刑罰が与えられたそうです。これは魔女狩りにも繋がっていたと思われます。17世紀のスコットランドでは1,500人以上が処刑されています。

教区に属する者でないと救済は受けられない決まりでしたが、1696年12月に非常に多くの物乞いが首都エディンバラに到着したため、市議会は彼ら全員を収容するためにグレイフライアーズ教会の庭に「難民キャンプ」を建設しました。他の町も物乞いに厳しい刑罰を課すことで対抗したそうです。

エディンバラのグレイフライアーズ教会。
1696年に「難民キャンプ」を建設した場所。

この状況によりスコットランド領土内の教区間の移動は制限されました。

そのためイギリスに移民する人もいたが、イギリスの救貧法も見知らぬ人への救援物資の配布を禁止していました。ヨーロッパ大陸でも同様でした。
年季奉公の志願兵として、アメリカ植民地や西インド諸島へ派遣された人もいたそうです。
1650年から1700年にかけて、約7,000人がアメリカに、1万人から2万人がヨーロッパとイギリスに、そして6万人から10万人がアイルランドに移住しました。

19世紀に起きたアイルランドのジャガイモ飢饉(1845年-1849)年を思い出します。アイルランドでは100万人が死亡し、飢饉の最悪の時期には移民はわずか1年で約25万人に達したそうです。

この旧スコットランド救貧法は、1845年の改革まで存続しました。

先日、中世の魔女狩りは気候変動のせいだという英語のtweetを見ました。
長いので詳しくは書きませんが、「凶作の蓄積と飢餓と病気への絶え間ない恐怖が、特に残酷な集団ヒステリーである魔女裁判の増加につながった」とtweetされていました。確かに関係ありそうな気がします。

ランリグの実施

絶望的な経済状況に対処するために、スコットランド議会はランリグ(ラン(畝)とリグ(尾根)という意味)という土地管理システムを推進する法律を可決。これにより生産性が高くなり、極限状態でも人々に食料を供給できるようになりました。

イーストロージアン、ハディントンの町外でのランリグ農業c. 1690年

スコットランドは、耕作可能あるいは良質の牧草地は5分の1から6分の1ほどに過ぎず、そのほとんどが南部と東部に位置しています。
そのため中世においては、牧畜農業と漁業が経済の主な要素でした。

険しい地形、未整備の道と輸送手段のために、スコットランド内の地域間の通商はほとんどなかったため、天候不順の年には頻繁に蓄えが枯渇しました。

「ランリグ」は、イギリスやアイルランドでも見られた共有畑制度(個々の農民の耕地が個別に存在するのではなく、村落全体で耕地を何分割かし、それをさらに帯状の耕地に細分して農民が耕作するという開放耕地制)に似ていました。要するに共同農場ということでしょう。
原始的な共産主義という見方もあるようです。

土地は不連続な区画に分割され、その区画は定期的に再割り当てされるため、個人が最良の土地を継続的に使用することはできませんでした。

ウェスター・キッチサイドのバカンズ・フィールドにあるリグと溝の跡

スコットランド銀行と移民計画の失敗

1695年7月にスコットランド銀行法が制定され、1696年2月からスコットランド銀行が営業を開始。株主はスコットランド国籍を持つ者に限られていたほか、議会の同意なくして国家へ貸付けを行うことは禁じられていました。

同じくして、スコットランド・ダリエン会社とも呼ばれるスコットランド会社(Company of Scotland)が設立されました。この会社は、アフリカとインド、南北アメリカへの貿易会社でした。

アフリカとインド諸島に貿易するスコットランド会社の旗 (1698 年)

スコットランド会社は、当時はグナヤラと呼ばれていたパナマの州に植民地ニューカレドニア(New Caledonia、「新スコットランド」の意)を建設し、パナマ地峡を陸路で横断して大西洋のダリエン湾から太平洋へと通じる交易路の開拓を目論んでいました。

結果的にこれは大失敗で、スコットランド政府の破産につながりました。
原因には80%を超える移住者が1年以内に死亡するなど、計画と準備の不十分、飢饉、熱帯病の壊滅的な流行などが挙げられますが、スコットランドによる植民を快く思わないイングランド東インド会社とイングランド政府との連携、スペイン帝国の軍事的反撃も大きく影響しました。

スコットランド王ウィリアム2世(イングランド王ウィリアム3世)は、スコットランドの植民地計画には熱心でありませんでした。当時イングランドはフランスと大同盟戦争を戦っており、中南米を版図としていた同盟国スペインとの対立を望んでいなかったためだったと見られています。

ウィリアム3世 (イングランド王)

ウィリアム3世は、オラニエ公・ナッサウ伯(在位:1650年11月14日 - 1702年3月8日)、オランダ総督(在職:1672年6月28日 - 1702年3月8日)、イングランド王・スコットランド王・アイルランド王(在位:1689年2月13日 - 1702年3月8日)。
スコットランド王としてはウィリアム2世。オランダ名ではウィレム3世(Willem III van Oranje-Nassau)。

1700年3月にスペイン軍に包囲され降伏、最終的に、植民地は放棄されました。3,000人の入植者のうち1,000人だけが生き残り、戻ってきたのは1隻の船だけでした。

スコットランド会社は、スコットランドで流通する資金の約20%を投入していたため財政破綻を招くことになり、1707年の合同法によってスコットランドの主権が喪失することへの反対運動を弱める大きな要因ともなりました。

1707年合同法(Acts of Union 1707)は、1707年、イングランド王国とスコットランド王国が合併し、連合王国としてグレートブリテン王国を建国することとした合同法。

1690年代の"七凶年(seven ill years)"は、悪化を続けるスコットランドの経済的地位によって引き起こされたと考えてもいいでしょう。

19世紀に再びハイランド地方で飢餓が起きますが、それは産業革命につながる農業革命によって進められた「囲い込み」が行われた影響だったようです。「囲い込み」については、イギリスの記事のほうに書きます。

今日はこのへんで。お読みくださりありがとうございました。

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