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リンディスファーン修道院&ヴァイキング&カール大帝

北海のヴァイキングによる海賊行動が盛んになったのは、8世紀~9世紀と言われています。

イングランドでは、789年には3隻のノース人の船がウェセックス王国の沿岸のポートランド島に上陸し、地元の役人を殺害した記録があり、792年のケント王国の憲章には「異教徒の船乗り」に対する防御策が示されていたそうです。

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ポートランド島を襲撃したのはノルウェーのヴァイキングで、ホルダランド(ノルウェー西部)から3隻の船でやってきたことがわかっています。

ノルウェーのヴァイキングの航路は、ノルウェーから西へと向かって広がりました。
彼らはイングランド北部からスコットランドの周縁部、シェットランド諸島、ヘブリディーズ諸島、アイルランド沿岸部に定住しました。

アイルランドのダブリンは、841年頃ヴァイキングの集落「Dyflin」(ディフリン)があり、奴隷貿易で繁栄していたそうです。
奴隷は、ウェールズイングランドノルマンディーから誘拐された人たちも含まれました。




リンディスファーンの蹂躙


793年6月8日、イングランド七王国のノーサンブリア王国にあるリンディスファーン島がヴァイキングに襲撃されました。

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リンディスファーン島には、635年頃にリンディスファーン修道院が建設されていました。

当時のノーサンブリア王国のオズワルド王は、616年に父王エゼルフリスが戦死したため、スコットランドのダルリアタ国(498–850)に亡命していている間にケルト系キリスト教の洗礼を受けていました。

オズワルド王は、伯父で先王のエドウィンが632年に戦死しため、633年にノーサンブリアの王位を継承しました。


余談ですが、ダルリアタ国は結構な影響力を持っていたと思います。
長くなるので割愛しますが、いつかまた書きたいです。

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リンディスファーン修道院とは


オズワルドは王になって間もなく、ダルリアタ国にノーサンブリアの民の改宗を促進するために司教を送るように要請しました。

オズワルド王は「南イングランドのローマ」(ケントのカンタベリー司教区)からではなく、自分が洗礼を受けたダルリアタ王国のケルト系キリスト教を広めることを望んでいたのです。


そうして635年頃、スコットランドのヘブリディーズ諸島のアイオナ島にあったアイオナ修道院から聖エイダン(Saint Aidan)が派遣されました。

アイオナ島(イオナ島)は、スコットランドの西海岸にあるインナーヘブリディーズ諸島の島です。主にアイオナ修道院で知られています。

アイオナ修道院は、563年に聖コルンバと12人の同士によって創設されました。彼らはここを拠点に、スコットランドやイングランド北部の異教徒をケルトキリスト教に改宗していったと言われています。

アイオナ修道院は現在はエキュメニカル(超宗派)教会になっています。

エイダンはリンディスファーン修道院を建設し、オズワルド王は修道院に司教座を与えて、ノーサンブリア王国におけるケルト系キリスト教の布教に当たらせました。

アイルランド人のエイダンが使う古アイルランド語を、亡命中にアイルランド語を学んだオズワルド王がノーサンブリアの方言に通訳したと言われています。

西暦700年頃のノーサンブリア
リンディスファーン島

リンディスファーン島 (Lindisfarne)は、英ノーサンバーランド州にある小島。ホリー・アイランドとも呼ばれ、潮が満ちると島となり、干潮になると土手道で本土とつながる。1550年に島に小さな城が建てられました。

リンディスファーン修道院は、アイオナ修道院からも修道士が移り住み、北部イングランドのキリスト教化の拠点となりました。
ノーサンブリアの修道士たちは、海を越えてフリースラント(オランダ・ドイツの北海沿岸地域)やフランク王国にまで布教の足跡を残しています。

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その頃、ケント王国ではローマ・カトリックが再上陸し、キリスト教への改宗が行われていました。

597年、第64代ローマ教皇グレゴリウス1世(在位590年-604年)が、聖アウグスティヌスをブリテン島に遣わし、ケント王国で伝道を始めました。

ケント王国の王エゼルベルト(560年頃 - 616年あるいは618年)の父親は、フランクの貴族だったと思われます。
エゼルベルトは、フランク王国メロヴィング朝の創始者クローヴィス1世の曾孫ベルタと結婚しました。

ケント王国は、6世紀後半には西ヨーロッパ最強のフランク王国と同盟関係を築いていたことがわかりますね。


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ケルト系キリスト教のローマ化


オズワルド王は、642年にマーシア王国との戦いで戦死し、弟のオシウ(オズウィ)がノーサンブリア王を継承しました。

オシウ(在位 642–670)もまた熱心なキリスト教徒であり、ギリング修道院ウィットビー修道院など多くの修道院を設立しました。


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ウィットビー修道院は、ヘンリー8世の宗教改革(修道院解散)によって、財産を没収され廃墟になってしまいましたが、現在も人気ある観光地のひとつです。
ブラム・ストーカーの1897年の小説『ドラキュラ』では、ドラキュラ伯爵が英国に移住し、ウィットビー修道院の墓地を歩く場面があります。

ウィットビー修道院廃墟


オシウの二番目の妃となったエドゥイン王の娘(オシウのいとこにあたる)エーンフレッド(Eanflæd)は、父の死後、叔父のケント国王エドバルド(在位 616 – 640年)のもとで育てられました。

ケントはフランク王国との結びつきが強く、オシウにとエーンフレッドとの結婚は、ノーサンブリア王国がフランク王国の支援を受けることを意味しました。

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ケント王国から始まったローマ・カトリック再改宗の流れは北上して、ノーサンブリア王国にもカトリック教会が建てられるようになり、典礼や慣習が違うケルト系の教会と調整する必要が出て来ました。

そして664年のオシウ(オズウィウ)王によるウィットビー教会会議で、イースターの日付をめぐってローマの習慣に従うことが決定されたのです。

イングランドのキリスト教は、当初アイルランドから伝わったケルト系キリスト教の影響が大きかった。
アイルランドのキリスト教は、ローマのベネディクトゥス会則とは大きく離れていたほか、修道制を基礎としておりカトリックのような司教の管轄下におかれる教区が設けられていなかった。
こうした様々な差異が、キリスト教の浸透とともに顕在化していき、両勢力の対立が強まっていた。こうした状況を収拾するため、664年、ノーサンブリア王のオズウィによってウィットビー教会会議が召集された。

南アイルランドのケルト系教会ではすでにローマ化が進められていましたが、ケルトの擁護者だったノーサンブリア王国でもローマ化が進められることになり、落胆した修道士や聖職者はノーサンブリアを去りました。

ある者はアイルランドに、ある者はアイオナ修道院に向かいました。
アイオナ修道院がローマの習慣を受け入れたのは、716年だったそうです。

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ケルト文化は文字による記録が殆どないため、ケルト系キリスト教についても、ローマ・カトリックの資料から察するのが一般的になっているそうですが、よく言われているようなケルト系キリスト教とローマカトリックの対立は誤解だったというというのが、最近の研究者たちの見解のようです。


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カール大帝とヴァイキング

793年6月8日のリンディスファーンの蹂躙は、ヴァイキングによる活動が本格化するきっかけとなり、ヴァイキング時代の始まりを象徴する事件とされています。

またイングランドだけでなく、西欧全体のキリスト教会に大きな衝撃を与えました。

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リンディスファーンを襲撃したのはノルウェーのヴァイキングだったと書かれている記事が多いですが・・・
私はデンマークのヴァイキングだったんじゃないかなと思っています。

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リンディスファーンの福音書』や聖カスバートの聖遺物といった重要な宝は略奪から守られたため、ヴァイキングの襲撃について事前に警告を受けていたのではないかと考えられています。

リンディスファーンの福音書


多くの僧侶が殺されたか捕虜になり、カール大帝は捕虜の身代金の準備をしたといわれています。

なぜフランク王国のカール大帝が?と思ったので調べてみると、ヴァイキングがリンディスファーン修道院を襲ったのは、カール大帝への反発であったようなのです。

カール大帝によるザクセン戦争(772年ー804年)では、見せしめにザクセン人を何千人も殺害したり、キリスト教への強制改宗や強制移住などで30年かけてフランク王国の支配下に組み込んでいきました。

つまり、ヴァイキングはただの物盗りではなかったんですね。
でも、ザクセン人(現在のドイツ)と北欧のヴァイキングの接点は?と思ったので、さらに調べて見ました。

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フランク王国とキリスト教布教


聖ボニファティウス(Bonifatius、675年頃 - 754年6月5日)は、8世紀にフランク王国にキリスト教を伝道した宣教師で、生まれはウェセックス王国クレディントンでした。

723年、ボニファティウスはガイスマー村(Geismar、現ヘッセン州北部のフリッツラー)にあった聖なるオークを切り倒しました。


ボニファティウスの活動に不可欠であったのが、フランク王国カロリング朝の影響力でした。
王国拡大を目指すカロリング朝にとっても、ボニファティウスによるザクセン人の聖地破壊やキリスト教布教は非常に好都合だったのです。


この時のフランク王は、小ピピン(カール大帝の父)でした。
カール大帝の伯父にあたるカルロマン(カールマン)は、信仰心が篤くボニファティウスの強力な支援者になりましたが、小ピピンは現実的でボニファティウスとは意見が合わないこともあったようです。

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カルロマンは746年に、現在のドイツのカンシュタットで評議会(カンシュタットの血の法廷)を招集し、出席したアレマンニ(ライン川上流域でゲルマン民族が連合した部族)の数千人の貴族を逮捕し、大逆罪で即決処刑したと伝えられています。

大逆罪の容疑は、 アレマンニア公テウデバルトとバイエルン公オディロの蜂起に加担したということでした。
これによりアレマンニの部族の指導者は事実上完全に排除され、アラマンニア公国の独立は終わりを告げました。
915年にアラマンニアの領土はシュヴァーベン公国となります。

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フランク王国とアラマンニ族の確執は、メロヴィング朝クローヴィス1 世の時代に遡ります。496年のトルビアックの戦いでは、アラマンニ族の一部がメロヴィング朝の保護下に入ったようです。
その後、西暦 506 年にストラスブールの戦いが起き、アラマンニ族はフランク国に編入されました。

クローヴィス1世は、トルビアックの戦い前はまだ改宗していませんでしたが、イエス・キリストに願った結果、アラマンニ族に勝利したので、その年のクリスマスにランス大聖堂ニカイア派のカトリックに改宗しました。

クローヴィスの洗礼

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翌747年、カルロマンが突然、イタリアのモンテ・カッシーノ修道院の修道士として隠棲(理由は不明。幽閉されたという説も)しました。
息子のドロゴは父が所有していたアウストラシアの権利を主張しましたが、小ピピンはその継承権を認めず、フランク王国全土を単独で統治しました。

753年にドロゴは捕らえられ、修道院に入れられました。

754年ローマ教皇ステファヌス2世は、サン・ドニ大聖堂でピピンとその妻ベルトラーダ、そして息子で当時12歳のシャルル(カール大帝)と3歳のカルロマン1世(カール大帝と不仲だったと言われる)に油を注ぎ、ピピンの子孫以外がフランク王国の王になることを正式に禁じました

偶然なのかもしれませんが、ボニファティウスも754年6月5日に暗殺されています。
ボニファティウスは、フリースラント(オランダ)のドックムという町で集団堅信式を開催したのですが、なぜかその場に信者は現れず、武装した集団によってボニファティウスは刺殺されてしまいました。

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カール大帝のザクセン戦争

小ピピンは768年に54歳で原因不明で死去し、ザクセン占領の夢は息子たちに引き継がれました。

カール大帝は、772年からドイツ北部のザクセン族に対して、30年に亘る戦争を開始しました。
かつてボニファティウスがしたように、カール大帝はザクセンの聖樹イルミンスルを破壊しました。

ザクセン族は、現在はオランダのオーファーアイセル州にあるデーフェンテルの教会を燃やし、報復を開始しました。

ザクセン地方は、中小の共同体が乱立していたため、リーダーを倒しても次に別のリーダーが現れるという具合で、フランク王国への抵抗は著しく、カール大帝は10回以上の遠征と強制改宗を行ったそうです。

ザクセン人はキリスト教を受容せず反抗を続けたたため、782年のヴェルデンの虐殺ではザクセン人の捕虜4500人が処刑されたと言われています。


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ザクセン戦争で最後までカール大帝に抵抗したのは、ドイツの(ノルトライン=ヴェストファーレン州およびニーダーザクセン州に跨る)ヴェストファーレンの貴族のヴィドゥキントでした。

神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(バルバロッサ)によって公爵領に格上げされるまで、ヴェストファーレンはザクセン公領の一部でした。
その前身は、古代末から中世初頭にかけてザクセン人を構成した4支族のひとつ、ヴェストファーレン支族まで遡ることができる。
1807年から1813年まで、ナポレオンの従属国としてヴェストファーレン王国があった。その後、ヴェストファーレンはプロイセン王国の州になった。


カール大帝はザクセンの征服を進め、776年、ヴェストファーレンのパーダーボルンに宮殿を建てました。
777年、パーダーボルンで最初の王国議会と教会会議が開催され、その後5回の王国集会が行われています。

794年、パーダーボルンの南のジントフェルトSintfeldでの決定的な戦いの後、この都市はフランク王国に属することになりました。

カール大帝の顧問・アルクィンの記述によると、
793年と794年のザクセン人(ヴェストファーレン人)の闘争は、フランク国によって導入された十分の一税の義務に反対するものでした。
ローマ・カトリックの司祭たちは、借金取りとして強盗のようでした。


777年、ヴィドゥキントはデンマークに逃れ、ヴァイキングのシグフレッド王(Sigfred)に庇護されました。

白い馬に乗るヴィドゥキント


シグフレッド王はフランク王国の拡大に脅威を感じ、ザクセン族を支援していました。

現在のザクセン州の位置よりも、当時のザクセンはデンマーク国境に接していましたから、ザクセンがフランクになってしまったら大変ですよね。
ザクセンの次は、デーン人の領地を取りに来る、交易ルートを奪われるのは、私でも想像できます。

ヴィドゥキントは、デンマークに避難している間、フランク王国に対抗する作戦を練り、しばしば会合を開いていたそうです。

778年、ヴェストファーレン人は再びフランク王国のラインラント(現在のドイツ西部ライン川沿岸の一帯)に侵攻し、激しい戦いを繰り広げました。

782年ズンテル(シュンテル)の戦いではザクセン人が勝利しましたが、直後にカール大帝は(前述のヴェルデンの虐殺で)4,500人のザクセン人を処刑しました。

ズンテル(Süntel)
ヴェルデン


歴史家アレッサンドロ・バルベーロは、「ヴェルデンの大量処刑のインスピレーションとして最も可能性の高いのは聖書だった」とし、カール大帝は「真のイスラエル王のように振る舞う」ことを望んでいたと、ダビデによるアマレク人の絶滅とモアブ人の征服に関する聖書の物語を引用している。

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ウィドウキントの改宗


785年、カール大帝は逃亡中のウィドゥキントがノルダルビンギアに潜伏していることを知り、バルデンガウに侵攻してウィドゥキントを捕らえましたが、なぜか彼を殺さずにキリスト教への改宗を交換条件にしました。

4500人も処刑したカール大帝が、なぜウィドゥキントを許したのか?

ウィドゥキントは彼の部族とともに降伏して洗礼を受け、フランク族の伯爵(ザクセン公)になりました。

ヴィドゥキントの改宗は「キリスト教の勝利を象徴するもの」とされ、教会の絵画や彫刻などに彼の姿が盛んに描かれたそうです。
カール大帝がウィドウキントを殺さなかった理由が察せられますね。


ウィドゥキントは、808年に死去したと言われています。
9世紀以来ウィドゥキントは英雄化され、伝承によればヴィドゥキントの洗礼後にカール大帝が贈ったとされている白い馬が、ヴェストファーレン州の紋章動物になっています。

紋章の白馬は、この地域を支配した貴族が好んで用いた。
他にはニーダーザクセン州、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公国、ハノーファー選帝侯国、ハノーファー王国、そしてプロイセン王国のハノーファー州、ブラウンシュヴァイク公国、ブラウンシュヴァイク共和国においても紋章として使われた。

ヴェストファーレンの旗


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ウィドゥキントが降伏した後もザクセン人の反乱は続きましたが、804年にザクセン全州がフランク王国に編入されました。

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デンマークのヴァイキング


ザクセンがフランク王国に吸収されると、デンマークとフランク王国が直接対峙することになりました。

804年はデンマークのシグフレッド王が死去した年で、ザクセンの敗北にはシグフレッド王の死も関係していそうです。

804年、カール大帝はデーン人の交易地の一つでバルト海南岸の町レーリクRerikにいたザクセン人を強制移住させ、フランクと同盟関係にあったスラブ民族のオボドリト人に分け与えました。
これは、デーン人の排除を狙ったものでした。

レーリクの紋章

これに対し、シグフレッド王の子グドフレッド(ゴズフレズ)は、フランク王国の攻撃に備えるためにデーンヴィルケ(デネバーク、土塁堤防)を建設し、808年にレーリクに軍事侵攻しオボドリト人を排除しました。

しかし810年にグドフレッドは家臣によって暗殺され、甥のヘミングが王位継承(在位810-812)しました。
翌811年にカール大帝とヘミングは和平を結び、アイダー川を国境とすることを受け入れました。

その後まもなくヘミングも亡くなり(フランク王国の捕虜になったとも)、デンマークでは827年まで続く王位継承戦争が始まったのでした。

814年にカール大帝が亡くなり、次王ルイ1世の治世になると、ヘミングの子ハラルド・クラクがフランク王国の宮廷に亡命しました。
ハラルドの王位復活(819—827年)に対するフランク王国の支援と引き換えに、ハラルドはキリスト教に改宗し、デンマーク初のキリスト教徒になりました。


フランク帝国は艦隊を持っていなかったため、デンマーク王を味方につけることで沿岸警備をしてもらう算段もあったでしょうね。

しかしカール大帝の威厳が薄れゆくにつれ、フリジア人やオボドリト人が反乱を起こすようになりました。ヴァイキングは、834年、843年に現在のフランスやオランダにあたるフランク領土を襲撃しました。
また、フランク王国は権力闘争が激しくなり、内部崩壊も始まりました。

西フランク王シャルル2世の治世では、120隻を数えるヴァイキングの船団がセーヌ川を遡行してパリを略奪したパリ包囲戦 (845年)が起きました。
ヴァイキングは復活祭の時期にパリに到達し、街を蹂躙した後、シャルル2世から7000リーブル(約2,570キログラム)の金銀を退去料として獲得して引き上げました。


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リンディスファーンのその後

794年にノーサンブリア王国のモンクウィアマス=ジャロウ修道院が、795年にはスコットランドのアイオナ修道院が、799年には西フランスのロワール川河口ノワール・ムーティエ島にあるサン・フィリベール修道院が相次いで襲撃を受けました。

モンクウィアマス=ジャロウ修道院跡
サン・フィリベール修道院


アイオナ修道院は802年と806年に再び攻撃され、68人が殺害されました。

伝記作家のピーター・アクロイドは
「リンディスファーンとジャロウの修道院は手当たり次第に攻撃されたのではない。彼らは復讐の例として選ばれました。
北の「異教徒」に対するキリスト教徒のシャルルマーニュ(カール大帝)の猛攻撃は、彼らの神殿と聖域の絶滅につながりました。
偉大な王は、北欧の人々の聖なる木であるヨルムンルを切り倒しました。
キリスト教の神に捧げられた土台を台無しにするよりも良い報復の形があるでしょうか?」と述べています。


ヴァイキングから大異教軍へ

865年以降、イングランドは「大異教軍」と呼ばれるヴァイキングの襲撃が続きました。
8世紀は修道院などの富の集積地が襲撃されていましたが、大異教軍は遥かに大規模にイングランドの広範囲を征服することを目的としていました。

845年のパリ包囲以来、ヴァイキングはフランク王国の領土を襲撃して莫大な富を獲得していました。
しかし862年にシャルル2世が河川の防備を固めたため、フランス内陸部での略奪が難しくなり、彼らは標的をイングランドに変更したのです。

その後、ウェセックスのアルフレッド大王(在位871 - 899年)がヴァイキングを封じ込め、イングランドにおけるヴァイキング活動は縮小していきました。(長くなるので続きはまた)

リンディスファーン修道院跡

875年、リンディスファーン修道院の司教と修道士たちは、さらなるヴァイキングの襲撃を恐れてリンディスファーンを去り、北部イングランドを彷徨い、最終的にダラムの地に第二の修道院を建設しました(ダラム大聖堂


11世紀にベネディクト会(カトリック)の修道士がリンディスファーンに戻ってきましたが、ヘンリー8世の修道院解散によって閉鎖されました。
その後、リンディスファーン島は要塞となり、16世紀テューダー朝に小さな城が建てられました。

現在は文化財保護団体イングリッシュ・ヘリテージの管理を受け、博物館になっています。

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この記事も長くなってしまいました。
リンディスファーンには聖カスバートの件など個人的な思い入れがあるので、詳しくはまたいつか書きたいです。
最後までお読みくださりありがとうございました。


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