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みんなを笑顔にしたかった皇帝ネロ

第5代ローマ皇帝ネロといえば悪名高き暴君ですが、歴史はどこまで真実かわからないですね。


というのは、ネロと対立していた元老院(古代ローマの統治機関)は、ネロを「国家の敵」とし、西暦68年6月にネロが自殺したあと、ダムナティオ・メモリアエ(名誉の破壊)という刑を適用して、公の記録やネロの銅像などを破壊しました。

のちの皇帝アウルス・ウィテッリウスはネロの名誉を回復しましたが、公の記録は処分されてしまったため、現在の私たちがネロに抱いている「暴君」のイメージは、その後の歴史家、政治家の著作が元になっています。

最初にネロの伝記を書いたスエトニウスタキトゥスは、ともに元老院と関わりが深く、ネロの治世を批判的に記していたと現在はわかっています。

私たちが知っているネロとは、主にスエトニウスとタキトゥスによる著作を何世紀に及び焼き直した結果であり、偶像でしかないと思います。


この記事では、ネロを別の角度から綴っていきます。
途中から有料にさせていただいてますので、ご了承ください。

ネロの生まれた時の名前は、ルキウス・ドミティウス・アヘノバルブス (Lucius Domitius Ahenobarbus)でした。

母親がローマ皇帝クラウディウス帝と再婚し、養子縁組した時点で名前がネロ・クラウディウス・カエサル・ドルーススとなりました。
ネロサビニ族の言葉で「果敢な男」を意味するそうです。





ネロの生い立ち

ネロの母アグリッピナは、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの曾孫にあたり、彼女の兄弟には第3代皇帝カリグラ(在位37年 - 41年)がいます。

アグリッピナは大変美しく頭の良い女性だったそうですが、2番目、3番目の夫を毒殺したり、邪魔な人物を失脚させ自殺に追い込んだりと、かなりな烈女だったことが知られています。
ネロに対しても過干渉で、性的虐待の噂もありました。

但し、アグリッピナの印象も捏造された可能性があるかもしれません。


ネロの実の父は、帝位継承者の一人だったグナエウス・ドミティウス・アヘノバルブスという人物ですが、悪行や残虐な行為のため評判は芳しくありませんでした。アグリッピナとは年が離れていたようです。

アグリッピナが13歳の時(西暦28年頃)に結婚したそうですが、41年に夫は病死してしまいました。

ネロの母アグリッピナ


アグリッピナは最初の夫ドミティウスが亡くなってまもなく、叔父のクラウディウス帝がおぜん立てした裕福な男性と再婚しました。

ところがクラウディウスが妻と離婚すると、アグリッピナは再婚相手を毒殺し、クラウディウスに接近。まんまと皇后の座に納まりました。

アグリッピナはクラウディウス帝の亡くなった兄の娘だったため、二人は法律で許可されていなかったはずの叔姪婚でした。
アグリッピナが、権力欲からクラウディウスに接近したのは明らかです。

そこに愛は、愛はあるんか~♪という感じですね。

アグリッピナがなぜ権力を欲したか、彼女の半生を調べてわかりましたが(決してネロのためではなかった)、ここでは割愛します。

西暦49年にアグリッピナはクラウディウス帝と結婚し、すぐに息子ネロを養子にするようクラウディウスを説得しました。

クラウディウスには、3番目の妻メッサリーナ(不倫相手と重婚したため、追放された)との間に息子ブリタンニクス(西暦41年 – 西暦55年)がいました。
当然ブリタンニクスに王位継承権がありましたが、年上のネロが加わることでブリタンニクスの立場は危うくなっていきました。

結局、ブリタンニクスはネロによって殺害されたと言われています。


劇『ブリタニクス』で演じられているネロ


16歳で義理の妹と結婚

ネロの最初の妻は、クラウディウス帝の3番目の妻だったメッサリーナの娘クラウディア・オクタウィアでした。

オクタウィア(12歳)には婚約者ルキウス・シラヌスがいましたが、ネロと結婚させるために婚約破棄させられ、シラヌスは性スキャンダルの濡れ衣を着せられ自殺に追い込まれました。

これは母アグリッピーナの策略で、皇帝の血を引くオクタウィアとネロを結婚させることで、ネロの王位継承を強化するためでした。

ただ、ネロとオクタウィアの関係は良いものではなかったようです。のちにオクタウィアは、離婚させられたうえに処刑されてしまいました。


17歳で皇帝に(西暦54年)

ネロは、クラウディウス帝が毒キノコで中毒死したため、17歳で即位しました。クラウディウスの死は、アグリッピナの暗殺だったと言われています。


ネロが生まれたのは、西暦37年12月15日。データバンクにバースチャートがありました。
年齢的にノードリターンで、結婚、皇帝に即位したことがわかります。

射手座生まれで、エレメントは火が強く、直感タイプです。

冥王星が発見されたのは1930年なので、この時代には認識されていませんが、太陽と冥王星がコンジャンクションになっている人は、強い個性の持ち主でカリスマ性があると言われます。

しかも、アセンダントにぴったりコンジャンクション。1ハウス火星もコンジャンクションの範囲です。

エレメント的にも対照的(火と水)で、太陽を生命の象徴とすれば、冥王星は死の象徴です。でも、冥王星には再生の意味もあります。
生まれながらの帝王、最高権力を持っていると考えていいですね。

冥王星を抜きに、太陽と火星で考えても意志の強さや、楽天家で情熱的で、また短気で性急な性格が現れています。


射手座生まれ、アセンダントも射手座ですから、社交的で、率直で、理想主義者でもあったでしょう。スポーツや芸術、哲学も好きだったでしょう。

ルーラーの木星は蠍座にあり、獅子座の月とスクエア。水瓶座の海王星(未発見)を含めるとTスクエアになります。
木星が過剰にするので、熱しやすく冷めやすい性格だったかも。

太陽、冥王星、火星に対してスクエアになっている乙女座の土星が「自制心」になるわけですが、射手座ステリウムですし、自由を欲し楽しければなんだっていいじゃないかとなってしまいます。
月も獅子座ですし、自分大好きで自意識も高かったと思います。

火星と土星のスクエアは、怒りにつき動かされると抑制がきかないところもあったかも知れません。
火星は月とセスキコードレートになっており、トラウマが刺激されると非情さが引き出される感じがします。

月は母を意味するので、過激な母アグリッピナの存在を表しています。
また月は妻のイメージも表すので、母のような自己主張の強い女性を無意識に求めていたでしょう。


芸人志望?

ネロは、当時の社会では蔑まれていた芸能人になりたいという願望があったそうです。歌うことが好きで、数千人に及ぶ観衆を集めワンマンショーを開くのが趣味だったとも。

60年には、5年に1度開かれるネロ祭を創設しました。
音楽、体育、戦車の三部門あり、ネロは竪琴、詩、弁論の3種目に出場したそうです。

なるほど射手座の楽しいことが好きなところと、獅子座月のオリジナルな個性を発揮したい願望が現れています。
弁舌も立つ人物だったという評判を見たことがあります。

64年には詩人として、ナポリで初めて公式に舞台に立った。
ナポリにはネロの大好きなギリシャ文化が多くあり、劇場が小さすぎるとして、再建築を命じたほどである。

ポンペイウス劇場では独唱会も開いた。
1度目は運悪く地震で観客は皆逃げてしまった。2度目は出入り口に人員を配置して逃げられないようにした。
しかし、あまりの退屈さに逃げる者が続出。出入り口が使えない為、塀をよじ登ったり、死んだ振りをして棺桶で外に運び出された者も居たと言う。
更には例外無く外に出ることを禁じたため、産気づき出産した女性も数人いたと伝えられる(親友の一人であったウェスパシアヌスはネロの演奏中に退屈のあまり眠ってしまい、これが原因で絶交してしまう)。

ジャイアンのリサイタルが思い浮かんでしまいました(苦笑)
やはり、獅子座の月を木星が過剰にしているのが効いているようです。

気取ったところがない性格で自ら娯楽に興じる皇帝の姿は、下層階級にはウケがよかったでしょうね。
上流階級は苦虫をかみつぶしていたかもしれません。


ローマ建築の業績

皇帝としてのネロの業績は、税制・通貨改革や古代コンクリートによる街づくり、東方への領土拡大など多岐にわたっています。

建築では、ネロ浴場、そしてドムス・アウレア(黄金宮殿)を建設しました。
ネロ浴場の水は、ヴィルゴ水道から分岐したアレクサンドリナ水道により供給されていたそうです。

ドムス・アウレア

ドムス・アウレア(ラテン語で「黄金の家」) は、西暦64年7月18日のローマ大火によってローマ市の3分の2が焦土と化したあとに建てられました。

ドムス・アウレア全体計画

ドムス・アウレアは、庭園を中心に多くの建築物が複合した宮殿で、入り口には大列柱廊と37mの高さのネロのブロンズ像(コロッスス)を構え、天井から花弁と香水が降り注ぐ食堂、天空の如く回転するドームなどがあり、壁や床はモザイクで覆われていた。
さらに、ギリシアなどからもたらされた美術品が無数に置かれていた。

天井から花弁と香水が降り注ぐ食堂、天空の如く回転するドームなんて、すごく夢がありますね。射手座はロマンチストです。

ドムス・アウレアの壁画の様式はラファエロによるバチカン宮殿の「スタンツェ」や、
18世紀の新古典主義に影響を与えた。



しかし104年に宮殿は火災に遭い、その敷地は次々と公共建築用地に転用され、消滅しました。そのため宮殿は文献からその姿を想像することしかできず、全容についてはよく分からないそうです。


エスクイリヌスの丘(現エスクィリーノの丘)の斜面にテラスを造り、人工池とその池を囲む庭園を見下ろす景観だったとのこと。
現在は、トラヤヌス浴場の地下に一部のみが残っています。

トラヤヌス浴場の遺跡


八角形の部屋


実際に行ったことはないですが、見どころは八角形の部屋だと思います。


使われているローマン・コンクリートは、無筋コンクリートですが、最近の研究でローマンコンクリートには「ライムクラスト」と呼ばれる炭酸カルシウムの塊が含まれており、「自己修復」特性があることがわかっています。

コンクリートの亀裂から浸透した水は炭酸カルシウムを溶解し、溶液を生成し、それが再結晶化して隙間を埋めるため耐久性が増すそうです。

ドムス アウレアの作品集

コリントス運河

67年に、ネロはコリントス運河の開削を開始しました。

コリントス地峡に運河を掘る構想は古代ギリシアの時代からあり、古代ローマ時代にもカエサルやカリグラも関心をもっていた。

ネロは6000人の奴隷を動員して3.3kmあまりを掘ったが、途中、ローマでガルバらの反乱が起こりネロは自殺してしまう。死後、帝位についたガルバによって工事は中断された。

ネロが計画した運河は、1893年に完成した現在のコリントス運河と同じルートである。古代ローマの土木建設技術の高さがうかがわれる。

Wikipedia


愛の葛藤

ネロの治世の最初の5年間は、「ネロの5年間」と呼ばれる平穏な時代だったそうです。

ネロの家庭教師であり、クラウディウス帝のコンスル(執政官)でもあったストア派の哲学者ルキウス・アンナエウス・セネカが、若き皇帝を補佐していました。

セネカはネロに母親から自立するよう奨励し、56年にネロはアグリッピナを政治から遠ざけましたが、アグリッピナの過干渉は続きました。

ネロが最も愛した女性

ネロは、皇帝になった翌年に奴隷のアクテを愛人にしていましたが、その後、親友オトの妻ポッパエア・サビナに心を惹かれるようになります。

ポッパエアはネロより7歳年上で、二人が濃い仲になったのは、ネロが21歳の時でした。


58年にオトとポッパエアは離婚し、ネロはオトをルシタニア(現在のポルトガル)総督に命じ、ローマから遠ざけました。


ポッパエア・サビナ Poppaea Sabina


略奪愛ということになるわけですが、射手座は性に対しては、十二星座一寛容だと思います(笑)


ネロはポッパエアとの結婚を望みましたが、母アグリッピナは強く反対し、皇帝の娘オクタウィアとの離婚を許しませんでした。

ここがかなりややこしいところなのですが、
ポッパエアの母は、47年にクラウディウス帝の3番目の妃メッサリーナによって自害を命ぜられています。
メッサリーナは、オクタウィアとブリタンニクスの母親でした。

また、ポッパエアが14歳ときに結婚した最初の夫クリスピヌスは、ネロの母アグリッピナによって失脚させられています。
ポッパエアは、クリスピヌスとの間に2人の子がいたそうです。
(のちにクリスピヌスは、ネロの暗殺計画に加担し流罪になりました)

ポッパエアは、失脚した夫を見限ってオトと結婚したと言われていますが、ほかの説によれば、オトはネロがポッパエアと結婚するためのつなぎ役だったとも言われています。


タキトゥスのポッパエアに対する見方は厳しく(というか、タキトゥスは誰にでも厳しい)、野心があり非情な女性だった記しているそうです。

ポッパエアは、ポンペイで生まれました。
79年のヴェスヴィオ山の噴火で町は壊滅しましたが、発掘が進みポッパエアの生家があった場所も特定されているそうです。

タキトゥスはポッパエアに辛口ですが、彼女は当時のファッション・リーダー的存在でもあったようです。
女性たちは、ポッパエアのヘアスタイルを真似、髪の毛の色も彼女と同じ色にするためにヘナを使って染めていたそうです。



ある説によれば、アグリッピナ(当時40歳)は、ネロとポッパエアの結婚を阻止するためにネロを誘惑し、近親相姦の既成事実を作り、再びネロをコントロールしようとしたと言われています。

たしかに母親からみて息子はとても可愛い存在です。それゆえ、可愛い息子を奪った(苦笑)嫁に敵対心を持つと言われます。
でも、息子を溺愛する母親がみな近親相姦になってしまうとは考えにくいですね。
アグリッピナは、自分の権威を手放したくなかったのでしょう。少女時代の辛い経験が彼女を権力志向にしたと思います。


ネロは、過干渉の母がついに疎ましくなり、59年に暗殺してしまいます。
母を殺さないと、一生自由が奪われると思ったのでしょうか。
しかし、さすがに母を殺してしまった後のネロは、精神状態が不安定になっていきました。「ネロは善悪の感覚を全く失った」とも言われています。

アグリッピアの兄のカリグラ(皇帝カリギュラ)も、しだいに狂気になっていき暗殺されたので、家系のカルマに狂気があったかもしれません。

アグリッピナとネロ


62年にポッパエアとの離婚に反対していた側近が急死し、ブレーンのセネカも失脚すると、ネロは不妊を理由にオクタウィアと離婚。

さらにオクタウィアが、アニケトゥスという者と不倫関係にあったとして、オクタウィアを姦通罪でパンダテリア島(現在のヴェントテーネ島)に幽閉しました。
オクタウィアは拷問の末、62年6月9日に自殺させられました。(22歳没)


その年の内にネロとポッパエアは結婚しました。
タキトゥスは、ポッパエアはネロに近付くためにオトと結婚したと言い、また母アグリッピナや妻オクタウィアの殺害もポッパエアがそそのかしたと記していたそうです。


ポッパエアは、結婚から3年後の65年に死去しました。35歳ぐらいだったようです。

ポッパエアが第2子を懐妊中、夫婦喧嘩によりネロがカッとなり彼女のお腹を激しく蹴ったのが死の原因と言われています。
タキトゥスは「ネロはポッパエアを熱愛していたし、何より子供を欲しがっていた」として、夫婦喧嘩はあったとしながらも事故死説を採っています。


ネロはポッパエアの死を悲しみ、当時の慣習であった火葬ではなく、遺体を香油に浸し、棺に香料や防腐剤を詰めて手厚く葬ったそうです。


因みに、ポッパエアの最初の結婚での息子(15歳)は、66年にネロによって処刑され、ポッパエア直系の血筋は絶えたそうです。



66年にネロは、3番目の妻スタティリア・メッサリーナと結婚しました。

ポッパエアが亡くなった直後、メッサリーナの夫であり、ネロの友人でもあったマルクス・ユリウス・ヴェスティヌス・アティカスは自殺しています。
この自殺も、ネロの策略に追い込まれたと見られています。

67年、ネロは、ポッパエアに驚くほどよく似ている奴隷の少年スポルスと結婚しました。
ネロは彼を去勢させ、亡くなったポッパエアの役を演じさせていたといわれています。ネロはポッパエアを殺してしまった後悔から、このような行動を取ったと考えられています。



ローマ大火(西暦64年)とキリスト教迫害

ネロは、キリスト教徒の迫害を行ったことでも有名です。ネロによる迫害は、ローマ大火がきっかけになりました。

ヒューバート・ロバート作『ローマの火』(1785年)


この火災は、完全に鎮火するまで6日7晩かかり、ローマ市の3分の2を焼失したそうです。

当時ローマは人口100万の大都市でしたが、集合住宅が密集し、多くが木造で道幅が狭かったことなどが災いし、火災が度々起きていたそうですが、このときの火災は大惨事になりました。

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