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講演者と参加者による対話の時間―〈いのち〉のオアシスとその活きについての話し合いの場

2019年9月7日、NPO法人場の研究所が主催する「場のシンポジウム2019」が、共催するエーザイ株式会社の大ホール(東京・文京区)で開催された。

今回のシンポジウムのテーマは、「『〈いのち〉のオアシス』~生きにくい社会の形を底辺から変えていく~」だ。

シンポジウム登壇者4名(清水博氏・高山千弘氏・田中元子氏・松田ユリ子氏※登壇順)による「講演者と参加者による対話の時間」『〈いのち〉のオアシスとその活きについての話し合いの場』をご紹介する。(文:あおみゆうの/編集:片岡峰子/写真:高橋昌也)

〈いのち〉のオアシスの目的

こばやしつよし(以下、こばやし):〈いのち〉のオアシスを考える対話の時間。このシンポジウムの場の中心にたえずあるのは、「生きにくい社会の形を底辺から変えていくための活動とは」という問いかけではないかと思っています。そのために〈いのち〉のオアシスが必要なのではないか、と。

また、会場のみなさんには、今日のシンポジウム、この対話を通じて、ご自分にとっての〈いのち〉のオアシスとはなにか、そのためにご自分ができることはなにか、を考えていただきたいと思います。

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まずは清水先生に、〈いのち〉のオアシスの目的についてお聞きします。

清水博(以下、清水):このシンポジウムは「弱さ」をテーマにしています。〈いのち〉の「弱さ」から出発したらどういうことになるのか。「生きている」という状態だけでは「生きていけない」。ここに〈いのち〉の弱さがあります。その弱さが、この社会での生きにくさにつながってしまうことがあります。

〈いのち〉の弱さを持っている私たちはどうすれば生きていけるのか? 〈いのち〉を居場所に与贈して、与贈循環の中で生きていくのです。ぐるぐると〈いのち〉が循環すると、居場所に〈いのち〉のドラマが生まれるから、そのドラマのなかで生きていけるのです。

ドラマのなかで〈いのち〉が〈いのち〉の自己組織によって生まれる。その〈いのち〉に包まれて生きていける。そんな〈いのち〉を生み出すところ、それが〈いのち〉のオアシスです。

「認識」の時代から「表現」の時代へと社会が変化している今、社会のあちこちにできてきたそうしたオアシスを「ソーシャルオアシス」と呼びたいと思います。

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「居る」ことで、すでに「表現」している

こばやし:本日皆さんの講演を聴かせていただいて、それぞれの「その場の表現」というものがあったように感じました。「自分たちの居場所にある表現」についてお聞かせいただけますでしょうか?

田中元子(以下、田中):私は「存在をしていること自体が公共であり表現」だと思います。表現というのは自分のためにしたくてすることだけではなく、思いがけずしてしまったり、うっかり見られたりすることもあると思います。

喫茶ランドリーや、コーヒーをふるまう屋台についていうと、その人がその人らしくある瞬間を作る「補助線」であることが喜びであるし、私のしたい表現です。

「誰かがその人らしくある風景」が私は嬉しいのです。やったことない人は「そんなことして損しないの?」って聞くんですよね。でも、giveだけでも解決する楽しみってあるんです。

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こばやし:田中さんの本の中に「そこにいることが大事」という一文がありますが、それがすごく印象に残っています。

田中:屋台で道行く人に「コーヒー飲まない?」って声をかける。お金持ちそうでも貧乏そうでも、年齢も関係なく、誰であっても。

私、飽きっぽいので、予想外のことが起きたり、全く考えをしないことが起こったりするのが好きなんです。それをくれる唯一の存在が他者であり、すべての他者にそれを感じます。誰であっても、まず「そこにいること」が大事だと思うのです。

松田ユリ子(以下、松田):高校は、子供たちが表現の舞台を与えられているように見えますが、本当に表現したいものじゃないことに評価が与えられます。それが、学校の仕組みになっています。

高校生って自己肯定感がない子が多いですが、私から見たら、すごい子ばかりなんですよ。「なんてすごいドラムを叩くの!」とか、屁理屈でもなんでも「なんてすごいしゃべりをするの!」とか。それをもっと他の人に見せればいいのに、と思います。そういう「表現をする場所」として、ぴっかり図書館があります。

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田中:「表現しろ」って言われても、もじもじする奥手な子もいますよね。でも、それがすでに表現ですよね。そこに存在するだけでも完結していると思います。

こばやし:強制される表現って、「したくないこと」なんですよね。させられる表現に対して、拒否できないこともある。反対に「自分でしたいことして良いよ」って言われても、サッとできませんよね……。「何かをして良い」って言われたときに、自由に「ぐずる」ことができる。そうした余白が必要ですね。

松田:プロレスの再試合をどうしてもしたいという男の子がいて、そう言ってきたときに「良いね。やろうよ!」と賛成して、でも何もしないでしばらくほっとくんです(笑)。しばらく放っておかれても、もう一回言って来たら本物です。

まず「生きにくさ」に目を向ける

こばやし:講演をお聴きして、皆さんには「生きやすい世界がある」と感じました。それは、生きにくい世界を知らずにできたものではなく、最初に生きにくい世界があって、そこから生きやすい世界を作り出したのではなないかなと感じます。

みなさんは「生きにくい世界だ」と思ったことはありませんでしたか?

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田中:私が喫茶ランドリーとか、フリーコーヒーをしているのは、こういう世の中の「逆張り」なんですよね。生きにくさの本質への興味がないと「それをどうやって転換していったらよいか」というアイディアが浮かんでこないと思います。お客さんの力を借りて、生徒の力を活かして、場作りをしています。

1階づくりの会社を作ったのも、いまの「1階」がダメな状態にあるから。他のだめなものに気づいていたら、他の会社を作ったでしょうね。

私たちは、何でもプロがやってくれて、与えられたものを取捨選択するだけ、受動的になるのを半強制的に作られていませんか。「今日一日能動的な瞬間あったかな?」って考えてみるのも大事だと思います。

喫茶ランドリーは「もっと安くもっとおいしく」には勝てないと思ったので「その人に能動的に価値を見つけてもらう」作戦です。

松田:私は、文学部を出ていて、将来的な道として多くの友人たちが教員を目指していました。でも私は「絶対教師に向いてないな」って、司書を目指しました。私なんかに、生徒に「ああしろ、こうしろ」って言えないなって思っていたので、教師になりたくなかったんですが、最初の赴任先が高校だったんです。

いったん学校に入ってみたら、その頃(1980年初頭)「管理教育」って言葉がありました。副担任をしていたんですが、文集に「嫌いな言葉:一致団結」って書いたら、担任の体育教師が怒っちゃったりして……。「学校という組織が肌に合わないな」って過ごしてきたのですが、そういうところが原動力ですね。

高山千弘(以下、高山):キーワードのひとつとして「弱さの力」があると思います。先ほど講演でお伝えしたように、自分で虚構を作ったり、人の評判をベースに自分の人生を生きている方がいたりする。自分の持っている「弱さ」をネガティブにとらえてしまっているから、なんですね。

「ハンディを抱えている方は、なぜ敢えて弱さを出そうとしているのか?」ここに大きな気付きがあると思います。〈いのち〉を与贈しようとしているのですよね。我々も彼らから学ぶことで与贈することができる。

本当の自分を表現する、本当の自分を明らかにする、人を本当に心から愛す、その人が自分を本当に愛してくれることに気が付く……。自分の弱さを隠そうとしないで生きることを、ハンディを抱えている方を通して学ぶことができます。

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こばやし:弱さは弱さであるけれども、そこに喫茶ランドリーやぴっかり図書館があると、そこで表現することができますね。

田中:喫茶ランドリーは、そんなに弱さには興味ないです(笑)。弱いとか強いとか、パッと見ただけでは分からないですよね。私から見て、弱そうでも意外とその人はタフかもしれないし、その逆もありえます。

「弱い」と「強い」の2つの対立ではような気がします。ある人にとっては大きな悩みでも、別の人にはそうではないこともある。社会的に二項対立だと思われがちですが、失敗とか弱さとかって「人間だからそれもあるよね」って社会的に言えるといいですよね。

非人間であることを目指している社会。失敗しないし弱くない。いつも同じサービスできる……それがプロ!?「そんな人間いないでしょ?」って思います。そういう社会的な価値観っておかしいですよね。

高山:私たちは、弱さや強さの意味を間違えてるんじゃないでしょうか。弱さというのは、「本当の意味で他者とつながっていない」「本当の自己に気が付いていない」ということだと思います。〈いのち〉の与贈循環に関係する弱さは、単なる力や権力ではないと思うんです。

清水:人や〈いのち〉を見るときに、「どこまで深く見ることができるか」ということは、非常に大切なことですよね。そのときに、弱さから見ていったほうが、人や〈いのち〉の本当の姿を見ることができるんです。

弱さから見ると、「人はひとりだけでは生きていけない。共存在をより深めていかなければ生きていけない」という法則が見えてくる。しかし強さから見ると、何も出てこない。

だから〈いのち〉との関係から何かを発見しようと思ったら、生きているものの存在の弱さから見るべきです。だから自分自身が持っている〈いのち〉の弱さは、ものを理解するために大切です。私たちは、自己を表現するときに自分の中でフィルターをかけて、弱さを出さないようにするので、限られた面しか表現されないのです。しかし〈いのち〉をもっていると言うことは、その〈いのち〉の弱さを持っていると言うことです。

先日も、小さい女の子が虐待によって命を落とした痛ましい事件がありました。弱さから〈いのち〉を見ることを社会に広げていって欲しいのです。〈いのち〉の弱さから人を見ることを資本主義経済に入れて欲しいと思います。

高山さんをはじめとしたエーザイさんの取り組みが、「資本主義のひとつの道を作っていってくれたら」と思います。

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その「活動」があるから、この「居場所」ができた

こばやし:「生きにくい世の中だなぁ」と思うことがあります。「そこにあるルールに従いなさい」というのがすべてで、答えにどれだけ早くたどり着けるかで勝負が決まってしまう。それが生きにくさのひとつになっていると思うんです。けれども、そこの生きにくさから外れていっている何かがあると思っています。松田さんのインタビューに、こんな一説があったんです。

「図書館は本来誰にでも使う権利がある場所。本を読んでもいいし、ぼんやりしていてもいい。誰に対しても開かれている場所。居ることが許されている場所です。」

こんなふうに言ってくださる方がいる、その場所に行ってみたくなりますよね。今日ご登壇いただいたみなさんは、「居場所作りをしている」のではなく、居場所作りという「活動」をしている。その場所がいいというより、その「活動」がいいと思うんです。

田中:居場所を作り、デザインすることと、それが機能するようにアクションすること。どちらも大事だと思っています。よい思想を持っている人に限って、デザインに興味がなくてダサいところに住んでいる。これって、私は「すごくもったいない」と思っているんです。私は、アクティビストではありたいけれども、環境がくれる力も見失わないでいたいですね。

高山:田中さんと松田さんの作っている「場」というのは、いろんな方々から与贈を受けて居場所の自己組織化がされているんですよね。なので、その場所に入ると全人格を全部許容される。だから、全人格を出せる。

入ったときには役割がなくて、「役割はつながりの中でできてくる」というのも魅力です。そして、「その居場所をよくしようという目的が共有されている」のも良い点だと思いました。

松田:図書館は学校の中にあるので、「学校の中の人間関係からは完全に自由になれない」という問題を抱えています。毎年1学年分ガラッと人が変わります。4月になると、学校的なオーラをまとった1年生が新利用者になって居心地を破壊します。

「彼らをいかに気づかせていくか」というのは、重要なテーマです。ゴミを片付けないでいなくなってしまうこともあります。「もう二度と来るもんか」と思われないように、子供たちが帰った後に真剣に話し合うんです。そして、11月頃になると、気付いたら、ゴミが片付いていたりとか、お掃除部隊が結成されていたりする。それが後輩に引き継がれていく訳です。この辺は学校的ではありますけれど。4月になると、また振り出しですけどね。

田中:「どんな言葉で伝えるか」と「どんな伝え方をするか」というのは大事なデザインですよね。その人に合ったデザインをとっさにする必要がある。言葉の使い方ってすごく即興性が求められる。松田さんのぴっかり図書館は、「コミュニケーションが繊細に図られている場だな」と感じました。

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しなやかな強さは弱さの上に生まれる

こばやし:会場のみなさん、「うまくいってていいなぁ」って感じる方はどのくらいいらっしゃいますか?(会場内で複数の手が挙がる) その中で「自分は何でうまくいかないんだろう」って思われる方の声をお聞きできたらと思います。

挙手された方:群馬県の薬剤師です。私は、母子家庭で育ちました。母が働いていたのでずっと一人でTVを観たり、トランプの大富豪を一人二役でやったりしていて。大人になってこのことを他人に話したときに「これは普通じゃなかったんだ」って気付いたんです。そこから、こうした問題にすごく興味を持つようになりました。

弱さから、強さに変わった瞬間というか、その人が切り替わった瞬間の言葉があれば、教えていただけますでしょうか?

松田:高校にいるとそれしかないです。自己肯定感を持てない状態で高校生になった子は、ざっくりとですが50%はいると思います。全員が押しなべて弱いから、それに対して教員が一丸となって考えています。自分の弱さに気が付いてそこからスタートするための学校にいるので、実例が沢山ありすぎて……。

清水:弱さは強さの原因にもなるんですよ。「しなやかな強さ」というのがありますよね。そして、しなやかさの裏にあるのは「創造性」です。今までの自分を少し変えることによっていろんな生き方ができる。男性よりも女性の方が、しなやかな強さを持つことができるのではないかと思うんですが……。

自分の中にある変化が起きる。自分にとってマイナスなことを受け止めるひとつの形ができる。生物の強さは、弱さの上に生まれるしなやかなもので、機械とは違うのです。そこがポイントだと思います。

田中:これには、個体差もあると思っています。「傷ついた人は優しくなれる」という言葉がありますが、そうとは限りません。性格が歪んでしまうこともあるので。弱みを強みに変換することのは、全員に起きるとは思えないです。

ただ、清水さんのおっしゃる「場の〈いのち〉」は、とても大切。弱みを強みに変えたときに受け入れてくれる居場所があることが必要だと思います。その転換が周りに受け入れられないと難しいですよね。

高山:「生きている」というのは、おそらく外在的な自己です。世の中の評価やエゴで生きているとき、そこにも弱さがあります。それと、内在的な自己に気が付いた弱さは、まったく違うものです。私は「本質的な自己=弱さ」に気が付くのが大事だと思っています。それが内在的な自己におけるしなやかな強さを生むんですね。

「生きていく」という境地に入った方と触れ合って共同化し時を過ごすこと。そこで心の壁を壊して溶かして内在的な弱さを見せ合う。それができた時に、人はガラッと内在的な自己に向けて変わっていくのです。

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こばやし:松田さんが「司書室のドアを開けっぱなしにしています」とおっしゃっていましたが、これが「時を一緒に過ごすことに繋がる取り組み」だと思いました。そして、いま高山さんが仰った「一緒に時を過ごす」ことで弱さに気が付くことが大事だと思います。

松田:図書館やカフェは、時間をかけて彼らを見ていくことができます。ところが、学校は学年制なので、1年ごとのスパンが強く影響しています。図書館では、学校とは違う時間軸で見てもらえる。1年生が3年生になったら本当に別の生物になるんですよね(笑)。

こばやし:生徒さんが変わっていく中で、松田さんも変わっていくのでしょうか?

松田:生徒たちよりも、私たちの方が沢山もらっているかもしれないですね。こばやしさんは(ぴっかり図書館に)足を運んでくださっているので、ご存知ですよね。

こばやし:今回、松田さんに講演のお願いをしようと思ったのも、ぴっかりカフェにボランティアで参加したからです。友人に誘われて参加したのですが、最初はどうしたらいいかわからなくて、どこにいたらいいかなど、生徒さんに教えてもらいました。

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松田:私はいつも生徒に教わっています。SNSの使い方とか、ギャル語とか(笑)。

清水:田中さんや松田さんを見ていると、「即興劇を楽しんでいる」ようですね。自分が何かを居場所に持ち込むことによってドラマが生まれる。ドラマの生成の喜び、即興性というのが非常に大切です。実際の舞台の上の即興劇は、場ができていないのでうまくいかないことが多いのです。与贈したことで〈場〉ができて、〈いのち〉がうまく循環していけば、〈場〉に救われるのですが、それがなかなかうまくいかない。

こういうことを「見当識がない」といいます。「全体はこういう風になっている」という未来への見当ですね。これが失われると認知症になると言われています。見当識が出てくるような居場所を作るのが非常にポイントになってきます。

田中:清水さんのお話の通りで、「予想もつかない即興が暴発する」のが楽しいです。プロのクリエイターは安定供給ですが、普通の人はちょっとしたきっかけで暴発する。それはプロにはない魅力だと思います。

社会的な問題として、即興を喜んでもらえない環境にあると思います。「即興を求めて作ったのに即興が起こらない」なんて言い出す人もいる。喫茶ランドリーは自由だと聞いて、「とんでもないこと起きませんか?」と言われます。「それがなにか?」って。

モラルに反することが起きないのは、そういう環境を作っているからです。デザインやサービスやコミュニケーションを駆使して、そうした場を作っている。補助線は、人によって何本引けばいいか違うのですごく繊細な話ですが、「真っ白な画用紙からは何も始まらない」というのは、経験からわかってきました。

いろんな「居方」があっていい

質問者:図書館の空間にはいられるけど、みんなのドラマにはちょっと入り辛い子もいますよね。〈いのち〉のオアシスに入りたくない子もいると思うんです。その子も入れる横軸ではなく、縦軸の与贈循環が生まれる階層のデザインができるとおもしろいと思いました。

田中:喫茶ランドリーは床に段差があって、4カ所に居場所があります。ちょっと子守したい人、みんなでいたい人、そうじゃない人、みんなが居合わせられるグランドレベルなんです。

「多様性の時代」と言われますが、嫌な人と好きな人、みんなと近い同じ距離で生きることではないと思っています。ソリがあわない人もソリがあわないなりにいて、お互い幸せに生きる距離の設定も多様性の時代に求められていると思います。

松田:学校図書館には「けもの道」が欠かせません。書架の奥にひっそり座れる椅子を置くのがデフォルトですが、いくら手前が盛り上がっていても、そこを避けて奥にある椅子に行けるようにするのです。いろいろなタイプの生徒が来られるようにする工夫をしています。

田中:社交的に見える人だけがよく来るわけではないです。みんな、それぞれのペースがあります。隅っこにいるけど気が付けば毎日来てくれる人もいます。言葉にしなくても成立するコミュニケーションもあると思います。

清水:個人の表現以外に、自分の〈いのち〉の表現があることに気が付くこと。個人の表現の裏から〈いのち〉の表現が出てくると、そこに居場所が生まれるのです。それを田中さん松田さんは実践しているし、高山さんが新薬を考えるときには、そこからエネルギーを貰う。

〈いのち〉の表現ができていると、悪いことが起きない。参加する人、それぞれが考える必要があるのです。人と同じことをする必要はないです。「どうすれば私の〈いのち〉が表現できるのか」を考える。

私は一人になって書斎で「私はどういう問題を考えるべきか」という問題を考えていることがよくあります。この瞬間が、「〈いのち〉を表現」しているのです。「たくさんの人のためにどういう問題を考えればいいのか?」という問いに向き合いながら、「もうひとつの科学」という本の執筆をしています。こうして向き合っているのも〈いのち〉の表現だと思います。

こばやし:最後に、〈いのち〉のオアシスということを心に置きながら、登壇者の方にひとことずついただきます。

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高山:今日は、ハンディキャップをお持ちの方やコミュニティをご紹介しました。「そこで自己を出している方がどのくらいいるのか?」というのが大事だと思っています。私たちが、本当の自己を出せるのが〈いのち〉の表現です。これには、相互主観性があって主観が一緒になっています。その場に身を置き、どのくらいの時間居るかが大切です。

田中:どなたであっても他者がそこにいるのが〈いのち〉のオアシスだと思います。「無人島に何を持っていく?」と聞かれたら私は、何も持っていきません。
誰かを連れて行きます。そのとき好きな人だったら、ベストかもしれないですね(笑)。家族とか恋人でさえ「あなたって宇宙人ね!」って思うことがあるくらい、まったく違う生物です。だからこそ〈いのち〉のオアシスは他者が与えてくれるし、自分もそうでありたいと思います。

松田:図書館の書架に詰まっている本は、私には人にしか見えません。今日私が本当にワクワクしたのが、「田中さんに、田中さんが書いた本にサインしてもらう」という経験です。既に本で出会っているのですが、本人と出会い直しをしたという感じで。書物は人の代替メディアだと考えています。図書館で働いていて幸せだなって思うのは、人に囲まれている感じがすごくするということです。

こばやし:いつもの場の研究所は「理論」がメインですが、本日は実際に活動している方の生の声を聴くことができて、非常にうれしかったです。

最後に、清水さんご挨拶をお願いしたいと思います。

清水:「意見の違いがある」ことこそが、「〈いのち〉」ということです。

今日参加された方々の熱意によって、立派なシンポジウムが開催されたことに感謝します。登壇してくださった方、足を運んでくださった方、本当にありがとうございました。

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