私たちが生きる意味

まだまだ煩いくらいに蝉が鳴く暑い日が続くのに、早いうちから地上に出ていた蝉だろうか、
我が家のベランダで力尽きているのを発見した。

その蝉の亡骸を見て思い出す。
前にこんなnoteを書いたことを。

人が生きていくために他者と協力し合う、ということが行き過ぎて、他者の評価を過度に気にしすぎて他人軸を生きてしまったり、逆に自分さえ良ければという考えで完全に他者を排除しようという両極端な風潮があるということを。

人は感情をもち、物事に意味を見出す事ができる動物だ。
だからこそ他の動物にはない発明をしたり、文化をというものを生み出してきた。
が、その反面で、どんな辛い出来事に対しても、何にでも意味を見出さねばと考え、感情に振り回されて却って自分の歩く道を見失ったりしてしまう。

では、人が生きていくということ、その意味というのは何だろう。
人以外の植物や動物が、生きる意味などを感じたりせずにただ本能のままにその生を謳歌するのと比べて。

そんなことを考えながら、今まで読んだ本を見返していたら、その中にこんな言葉を見つけた。
そればかり考えていると、文面から浮かび上がってくるように必要なことは目に飛び込んでくる。


患者は苦痛で苦しいうえに 、その状態に意味が無いことになって 、二重の苦しみを味わうことになる 。それでもやはり 、たとえ苦痛にでもプラスの面もある 、という多面的な考え方は必要なのです 。年々 、自殺者が増えているということは 、直接的には不況などが原因になっているとはいえ 、突き詰めれば人生に意味を見出せない人が増えている 、ということに他なりません 。実際には意味について考えつづけること自体が大切な作業なのです 。


若い頃ぼくは、リアルに生きることを目指していた。この世界と自分の真実だけを芯で捉えて生きてやろうと息巻いていた。それがリアルだと信じていた。
そんなことは無理だったし、ぼくがかつて「真実」と呼んでいたものだって時と場合によって簡単に姿を変える、有って無いようなものだった。
それならば、今のぼくはファンタジーを選ぶ。使命というファンタジーを作り出し、それを自分に信じ込ませる。
趣味や娯楽を振り回し、ただ生まれて死ぬという事象にデコレーションしまくる。
真実はあまりにも残酷で、あまりにも美しくて、まともに向き合うと疲れてしまうから、真実はたまにぐらいがちょうどいい。何かに酔って、現実の輪郭を少しだけぼやけさせ続けながら生きる。
この現実を生きるために、ファンタジー、何をどれくらい選ぶか。


たぶん、これは答えなんてないのだろう。
意味があると思えば意味があるし、意味なんてない、ただ在るが儘に生きるだけだと思えばそれが正しい。

私も稀有な病気の症状が酷く、どう治療をしていけばいいのかを迷い、落胆していた時、
なんでこんな病気にならなくてはならないのか。
なんで自分はこんなに辛い思いをしなければならないのか。
と何度も思った。

病気に意味を見出そうとすると、辛い。
でも意味がないと思うのも辛かった。

結局、長いことかかって、病気を少しずつ受け入れること、また望んでいた、子どもを授かるということも叶った。

でもじゃあ病気の、私の人生における意味は?というとハッキリとは定められない。もしかしたらまだまだ時間がかかるのかもしれない。

一部のことには意味を見出し、他の部分は在るが儘というような状態だ。

都合が良い解釈と言えばそうかもしれない。
でも養老孟司さんや若林正恭さんが書かれているように、苦しいことに意味を見出したり、逆に真実があまりにも過酷なのでファンタジーで埋め尽くして輪郭をボカすということをいかにバランスよく使い分けられるか、かなと思っている。

決め打ちすることにより気持ちが楽になるなら、それでよし。

真実も内包しつつ、ファンタジーでボカすことで前に向きやすくなるなら、またそれでよし。

〜べき
〜でなければならない

と肩肘張らず、もっと楽に考えてもいいのかなと思っている。

勿論、辛い渦中にあるときにはすぐにそんなことは思えないのかもしれないが。

#意味 #人生 #苦痛 #つぶやき #薬剤師

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