“伝えるということ”を考える
とある東洋医学の講座を受講したときのこと。
先生は、医学用語であったり、薬の処方内容について、みんなが同じように認識して話したり、その言葉を使ったりしているように見えて、実はその一つの言葉でみんなが思い描くことが多岐に渡っているのだ、ということを話された。
つまりは多義語である、ということ。
西洋医学の薬は、有効成分として◯◯がどのくらいの量含まれて、添加物はこのくらいで、どういう形の構造を持った化合物で、と細かく規定されているから、人による認識の違いは生じづらい。
西洋医学では、薬においても病気においても、A=Bというきっちりとした定義がなされている。
しかしそれだけきっちりと定義されていても、やはり人による捉え方やメディアの取り上げ方は様々で、人がそれを認識している範囲には少しずつ幅があるように思う。
一方で東洋医学では、いくつかの生薬を組み合わせたものを、例えば“葛根湯”などという名前で呼ぶ。
その葛根湯というものは、Aという生薬とBという生薬と...を含み、それぞれ何グラムで、ということは、古い書物などを紐解けば書かれているし、医療用医薬品としての漢方薬はきちんと量が定められている。
しかし、どの古い書物を参考にするかによっても実は処方構成が少しずつ違ったりする。
またAという生薬、だけでも、どこで採れた植物あるいは動物のどの部位を、どういう処理をして加工したものなのか、ということも多岐に渡っているのだ。
部位や加工方法が違えば、当然薬効も違ってくるはずだ。
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薬や医療行為の場合、定義がきちんとされて、それに則って行われないと安全性に問題が生じる。
だからこそ、伝わらないことと、それぞれの人がどう把握しているかということは非常に問題になる。
一方、このnoteにおいてはどうだろう。
noteでは、専門知識を解説している内容を書かれている人もいれば、
小説や漫画、エッセイなどを表現として発表されている人もいる。
前者においては、やはり医療と同じで、正確に定義された言葉を、その意味の解説とともに書き記す必要があるだろう。
正確に定義が伝わらないと意味がないからだ。
後者は、逆に人によって捉え方が微妙に異なることによって、その作品が読んだ人たちの個々の中で完成されたり、色んな形として昇華されていくことになる。
自分が思いの丈を綴ったエッセイも、他の方から見たら違う趣向で捉えられることもあり、面白いなと思うこともあるし、逆にそう捉えられてしまったか、という思いをすることもある。
もしかしたら「記事に共感できる♡」と思っても、それはその書かれた方が本当に伝えたい思いとは少し重なっているだけで、本質的に全てを理解して共感できているのではないのかもしれない。
でもだからこそ面白いのかもしれない。
世界は多義語に溢れている。
それで伝わらないこともあるし、逆に新たな意味が付加されて、深みをましていくこともある。
厄介だけれど、面白い。
面倒だけれど、美しい。
そんなもどかしさを感じながら、私は伝えるということを日々考えている。
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