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私と絵の話

子供のころ、だれしも一度は「将来何になりたい?」と聞かれたことがあるでしょう。
私も、何度かその質問をされたことがあります。
私の一番昔の記憶によると、幼稚園の頃に将来なりたい職業について尋ねられ、「絵描きさん」と答えました。
それは私の両親も記憶しており、「お前は小さいころから絵を描くのが好きだった」と証言しています。
 

①    小学生のころ


それほど絵の才能は発揮されず、鳴かず飛ばずで過ごしていた私が、唯一、絵で褒められたのが、地元で開催された小学生向け絵のコンクールで銅賞をもらったことでした。
その時描いたのは、紅葉した山の絵でした。

こんな感じの紅葉の絵でした


銅賞、つまり3等賞で、しかも金賞や銀賞よりもずっとずっと受賞者の数が多いのですが、私はかなり調子に乗りました。
賞をもらうという喜びを再度味わいたいと、何かの懸賞に応募しようとして葉書に絵をかいていたら、父に落書きをしていると勘違いされ、ひどく叱られたことがありました。
「いたずら書きするのならば、チラシの裏にしなさい!」
それ以降、私は裏が白いチラシをホチキスで止めて、お絵かき帳を作って絵を書き溜めるようになりました。
 

②    中学生のころ


相変わらず絵を描くのが好きな私は、図画の授業というよりは、少女漫画に夢中になり、芸術としての絵ではなくて、漫画を描くようになりました。
ある日、中学時代の友人が、少女漫画雑誌に投稿をしました。
中学生でも大人と同じように漫画を描いて、雑誌に投稿することができるんだ!
私は友人から有名な漫画家の大部分は、若いころから雑誌に投稿し、高校生でデビューをしていることを教えてもらいました。
それに触発された私も、ただ絵を描くだけではなく、ストーリーのある少女漫画を描くようになりました。
Gペンやインク、画用紙など、漫画を描く本格的な道具もそろえ始めました。
お小遣いの大部分を漫画雑誌や漫画を描く道具に費やし、とにかく少女漫画にはまりました。
負けてなるものかと、友人と競い合って、雑誌への投稿を続けますが、結果は惨憺たる有様でした。
まったく歯牙にもかけられず、すぐに返却
それでも無謀に描き続け、漫画家になる日を夢見ていました。
 

③    高校生のころ


高校に入り、私は美術部に所属しました。
生まれて初めて油絵を習い、絵の基礎を顧問の先生に習いました。
でも、高文連では地区予選も通過せず、相変わらず鳴かず飛ばず…。
それと同時に、高校の先輩が漫画家としてデビューしたため、その人が主催している同好会にも所属して、地元にいる漫画家を目指す人々の輪にも加わりました。
美術部の先輩が美大に合格したのを横目に見ながら、「アートとしての絵かき」と「少女漫画家」の間で、自分の才能は度外視して勝手に心が揺れていました。
でも…現実は甘くはありません。
もちろん、美大に進学した先輩の絵は私など足元にも及ばない芸術的なセンスあふれた作品でしたし、漫画家の先輩の友人たちも、私とは歴然とした差がありました。
高校の部活動は3年生になると大学受験のためにほぼ引退します。
勝負は2年生の秋の高文連まで…と思い、なんとしてでも高文連で入賞して、それを足掛かりに美大進学を目指そうと思いました。
私はどちらかというと風景画や静物画よりも人物画が好きだったので、部活動に所属していない友人を半ば強引にモデルにして、「友人の絵」を描きました。

必死に描くが落選した友人の絵


自分では結構、うまくかけていたと思ったのですが…やはり入選はできませんでした。
そして漫画のほうも、地方在住の私は、雑誌社が主催する移動漫画教室に参加してみたのですが、プロの漫画家とともに来ていた編集者の方に、コテンパンに実力を評価され、現実を突きつけられました。
それとともに、ゲスト参加していて、即興で絵を描いてくださった漫画家さんのあまりの絵のうまさに、プロとアマチュアの力の差を見せつけられました。
実は…その時来られていた漫画家さんとは、あの「いくえみ稜」さんでした。
私は生まれて初めてプロの漫画家さんを見たのですが、絵のうまさもそうですが、服装や化粧など、いでたちがあか抜けていたのにもびっくりしました。

とっても素敵だった「いくえみ綾先生」


そんなこんなで、高校時代に漫画家デビューどころか、絵の道に進むことも危ういことに気づき、普通に大学を受験することにしました。
 

④    大学生のころ


大学生になっても夢見がちの私は、まだまだ漫画家の道を諦められず、しつこく漫画を描き続けていました。
当時はバブルのころだったのですが、華やかな女子大生生活を送ることもなく、地味に漫画を描き続けていたのです。
しかし、就職という現実も目の前に迫っていて、いつまでも夢を見てはいられないことにも気づいていました。
仕方がなく、燃え上がっていた少女漫画家への野望の炎はどんどん鎮火していき、私はそのまま大学の関係の施設に就職することになりました…。
その当時の就職活動は引く手あまたで、支度金をもらって就職する人もいたぐらいだったのですが、あまり熱心に就職活動をしていず、そして社会人になることにも消極的で、いつまでも夢見がちだった私は、手っ取り早く就職できる大学の関連施設に就職したのでした。
 

⑤    社会人になってから


ダラダラしていた学生時代とは違い、就職してからの私の生活は、規則正しく、そして忙しくなりました。
仕事上覚えなければならないこともたくさんあり、私の頭も体もいっぱいいっぱいで、漫画を描くことも読むことすらもできなくなっていました。
それまで定期購読していた漫画雑誌も読まなくなり、しばらく絵とは無縁の生活が始まります。
しかし、働き始めて数年たって、仕事に慣れてくると、金銭的にも時間も余裕ができました。
それと同時に、誰もがぶち当たる「この仕事でいいのか」「自分には隠れた才能があるのでは…」という現実逃避が始まります。
臆病な私は、ここできっぱり仕事をやめて蓄えをもとに本当に好きな絵の道に進もう…などと無謀なことをすることもなく、うじうじと「本当は絵を描く仕事につきたかったんだけどな…」と思いながら、仕事もそれなりにこなしていきました。
数年間絵を描いていないと、再び書き始めるのはハードルが高く、しばらくはうじうじ思うだけで絵とは疎遠の生活をしていました。
数十年後、私の人生最大…と思うようなストレスに見舞われた時、どうしようもなく落ち込み、もがき苦しんでいる私に、カルチャースクールの広告が目に入り、気まぐれで油絵教室に申し込みました。
 

⑥    絵を描く趣味


「絵を描くこと」を数十年ぶりにお金を払って習うという経験は、「絵で稼ぐ」という強欲を捨て、趣味としての絵にシフトする契機になりました。
それは、自分の人生の選択肢がもう無限には広がっていないと、ちゃんと認識できた結果だったのだと思います。
「好き」を仕事にできる人も世の中には存在しますが、多くの人は「仕事」は好きな事ではなく、楽しくもない…。
でも、「好きな事」を続けることはとても大切な事だと私は気づきました。
カルチャースクールは、引退したご老人ばかりで、私はその中では異色の若さ(すでに30代でしたが…)でした。

美大の先生が講師を務めておられた油絵教室


一番若くて一番下手…でしたが、講師の先生や周りのご老人に気を使われながら、それなりに楽しく絵を描いて過ごし、その後は細々と絵を描き続けています。
決してうまくはないのですが、それで誰かに迷惑をかけることもなく、それなりに楽しくやっています。
絵を描くことを仕事にしている方々は、いろいろな人にそれを評価され、報酬に見あった出来を期待され、それはそれで大変なんだろうなぁ…と思ったりもします。
 
今は「絵をかくこと」を仕事にしなかったことで、自由に絵が描けるんだとわかりました。
「好き」を仕事にすることには不自由も伴う…「好き」のままではいられなくなるかもしれないという現実を理解し、諸刃の剣だなぁ…と思います。






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