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福音書成立の頃|信仰のない私が教会で学ぶ理由|小礼拝堂にて

「小礼拝堂にて」は、キリスト教会での勉強会の様子をメモしている不定期シリーズ(?)です。「#小礼拝堂にて」タグをつけています。


「あの...こんなこと言うと怒られるかもしれませんが」
 私の前置きに、牧師さまはややたじろぎながら、
「な、何でしょう」
「ここ(聖書)に書いてあることが全部作り話でも、私はいいと思うんです。自分でも、奇蹟物語を読むたびに、(そうだったらいいなとは思うけれど、科学的ではないよね)と思ってしまうから──全部創作でも、2000年みんなに大切にされてきたものだから、私も大切にしたいと思うんです。ただ、磔刑の時に逃げ出した弟子たちが、後に熱心に(迫害されながら)布教に励んだそのことを思うと、そこには確実に、史実以上の【なにか】が起きたのだろうとは思います」

 牧師さまは安心したようでした。(たぶん、失礼を承知でそういうことを言ってくるやからがたまにいるのかも💦)
「奇蹟物語を読むとき、私たちはつい《結果》を見て、ほんとうに病気が治るわけがない、と思ったりしますよね。でも、当時その場にいた人の立場に立つと、病気になってしまった(=当時の考え方では、本人の罪の結果であり穢れた者としてつまはじきにされていた)自分のところに、イエスがやってきて、人間として接していたわってくれたことが《奇蹟》であり、受け入れられたことをもって《治った》と感じた...という理解でいいと思います」

 私の参加する勉強会は、牧師夫人を除いて全員信仰を持っていないので、牧師さまはそんな私たちでも納得のいくように、現代風にかみ砕いて説明してくださいます。
 きっと、お心の中の景色は、私たちが見ているものとは違うと思うのですが...。


 1月6日が「公現日」だったため、その回(1月末)のテーマはキリスト誕生の「その後」。
 ヨセフ、マリア、新生児イエスが天使のお告げを受けてエジプトに逃れた...というあたりを読みました(マタイ伝第2章)。
 当時の王であるヘロデ(※)は、占星術師から「ベツレヘムでユダヤ人の真の王がお生まれになりました」みたいな知らせを聞いて、自分の地位を危ぶみ、その幼子を探し出そうとします。
 それがうまく行かなかったので、その一帯に住む「2歳以下の男の子」をすべて殺させる、という恐ろしい出来事が展開します。

「でもどうして神様は、天使を遣わして、その子たちを全員助けてあげなかったんですか?」(←別の参加者)

「そこなんですよ。そのあたりは難しいですが、少なくとも史実としてヘロデ王は非常に残忍だったことが知られています」
 と、牧師さま。

 聖書は信仰の書でありつつ、史実も盛り込まれているので、そのグラデーションを読み解くのもおもしろそう。

 ちなみに、聖家族がエジプトに一時退避したのも、旧約聖書の預言を実現させるための神の計らいである、とマタイ伝には書かれています。神への畏敬が読み取れますね。

(※)このヘロデ王は、『サロメ』に出てくるヘロデ・アンティパスの父親。


 そもそも、福音書が書かれた動機は、キリストを直接知る第一世代が世を去る時代を迎えるなか、「イエスさまのことを書き残しておきたい」という動きが起きたためと言われています。

 福音書成立の順番として:
イエスの公生涯〜磔刑 A.D.30頃
 ↓
(その頃20歳だった世代が、世を去り始める(寿命は50歳あたり))
 ↓
イエスの公生涯を描いたマルコ A.D.60頃
 ↓
「では、このイエスさまが生まれたときは、どうだったのだろう」と、受胎告知や誕生物語を(資料、口伝をもとに、一部推測を交えて)著したのが、マタイルカ A.D.80頃
 ↓
数十年後、哲学的に思索してみたヨハネ A.D.100頃

という経過をたどっています。(成立年代については諸説あり。)

 聖書には、これら4つの福音書が納められていますが、他にも福音書は存在していて、たとえば『トマス福音書』は過激なので不採用になったりした経緯もあるそうです。(そう言われると読みたくなる(◔‿◔))




 そして、その日に学んだ一番大切なことは、こうでした。

 私たちは、世の中に失望したり嫌気がさしたりすると、「スーパーヒーローが現れて、世界を救ってくれたらいいのに」などと思ってしまう。(実際、そういう宗教もあります。)
 けれど、イエスは、部屋どころか馬小屋で生まれ、長じてからも権力者から遠いところで、もっとも虐げられた人びとに寄り添い、そのことによって、やがて権力者に睨まれて処刑された、という大枠で見るならば、スーパーヒーローを待つ、という宗教ではない。
 隣人愛を実践したキリストに倣って、私たち一人一人が地道に良い方向を目指して行動することが求められている。



 いいなあ、と思うのです。マタイ伝22:34にもあるように、キリスト教においては、信仰隣人愛とが、同じ重みで語られます。時には、信仰よりもなお隣人愛が大切であると考えているフシも見受けられます。これもまた、《誠実な宗教》たり得る証しなのでしょう。
 信仰のない私が教会に足を踏み入れても良い(許される)と思う理由は、ここにあるのだろうと考えています。


 キリスト教の暦では、3月頃の受難節、そして、復活祭イースター(3月末〜4月初旬のいずれかの日)へと向かっていきます。1年で最も夜の長い冬至頃にクリスマスを定めていますので、春を待ちながら、一度悲しみを通り抜けて、喜びの春を迎えるのですね。

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