三津田信三の幽霊屋敷シリーズを読む -日本一有名な七◯◯◯-

序文の代わりに

去年の夏あたりから実話系のホラーを読んでいる。

多分きっかけはネットフリックス版の「呪怨」だったと思う。これ自体は実話系ではないのだが、そのまま「残穢」「ほねがらみ」「忌録」などに興味が広がっていったのだ。「どこの家にも怖いものはいる」から続く一連のシリーズ(通称「幽霊屋敷シリーズ」)を読んだのもその流れだ。

実話怪談を、というか怪談を読んでいるとどこかで似たような話に遭遇することがある。定番化したネタを取り込んだもの、同じ都市伝説を取り込んだもの、あるいは隠された古い由来のあるもの。それとも同じ怪異にまつわる体験談が別々に伝わったもの?

幽霊屋敷シリーズはこうした「共通点のある実話怪談」というコンセプトを積極的に取り入れたシリーズだ。

本稿ではこの幽霊屋敷シリーズの謎に挑戦する

絨毯の柄

幽霊屋敷シリーズは、作者である三津田氏がペンネームでそのまま登場する幕間パートと、彼が収集した体験談パートで構成されている。体験談それぞれが短編のホラー小説として機能する一方で、幕間パートではそれぞれの共通点からより大きな怪異の存在を推理する、という趣向だ。

体験談の共通点とそこから導かれる推理は基本的に各巻ごとに総括されるが、最新刊(※1)となる「そこに無い家に呼ばれる」では、巻をまたいで、あるいはさらに大きな範囲で散らばる断片からより大きな怪異の姿が明らかになるのではないか?という可能性が示唆されている。

さて、ここで一度、本稿がこの実話怪談シリーズに対して取るスタンスを明らかにしておきたい。幽霊屋敷シリーズような本を語るためには三つのレイヤーを前提にする必要がある。

・まず、本を読んでいる我々読者の生きている「現実のレイヤー」
・そして本の作者がペンネームそのままで登場する「幕間のレイヤー」
・最後に作者が収集したという形で語られる「体験談のレイヤー」

本稿では「幕間のレイヤー」を「現実のレイヤー」と同一視する趣向を信じる前提で話を進める。ただし、以下の点を補足しておく。

・「幕間のレイヤー」の記述には出来事の簡略化やフェイク(主にプライバシーの保護の観点から体験談に意図的な嘘を混ぜること)があり得ると考える。
・また、怪異そのものの性質やなんらかのタブーへの対策として「幕間のレイヤー」や「体験談のレイヤー」の記述が修正された可能性はあり得ると考える。
・反対に、読者に対する隠されたヒントを示したり、小説としてのまとまりを持たせたりするために、実際にはそのタイミングでズバリの言葉では語られていないようなことを「幕間のレイヤー」の会話に入れるようなこともあり得ると考える。(私見だが、「そこにない家に呼ばれる」ではこの形式で作られた会話シーンが特に多いのではないかと考えている。)

この場合重要なのは、怪談が現実であった方が怖いなあというようなことではない。そうではなく、「幕間のレイヤー」には現実に存在するものが全て存在する前提で語ることがキーなのだ。

例えば、以前から幽霊屋敷シリーズとの関連が指摘されている本として、先に名前を出した「忌録」がある。

詳細は有志(?)によるtogetterのまとめ等で確認できるためここでは省略するが、「忌録」と幽霊屋敷シリーズの「どこの家にも怖いものはいる」には共通するキーワードや何かの関連を示すヒントのような記述が登場することが指摘されており、「忌録」作者の阿澄思惟氏は三津田氏の変名なのではないかという説まである。

兎にも角にも、この「忌録」と「どこの家にも怖いものはいる」は同じ「現実レイヤー」存在する書籍であり、ということは「幕間のレイヤー」で互いの存在を認識することも可能だということがポイントだ。

言い方を変えると、ミステリー小説のように小説の中に全てのヒントがあるわけではなく、現実に存在する全ての要素がこの隠された怪談のヒントとなる可能性を考える必要があるということだ。

※1 2021年9月現在

数字を見る

さて、ではここからは具体的に隠された怪談の正体を探って行こうと思う。そのためには散らばった断片を含む物語を集めなければならない。仮に三津田氏が集取した物語に焦点を絞るとしても、ヒントなしではとても無理だ。

「そこに無い家に呼ばれる」では怪異自身が謎を解かれたがっているような描写が存在する。だとすれば、ヒントがどこかに存在するはずなのだ。

実際、候補の一つである「忌録」には「光子」というワードや三津田氏のペンネームを暗に示すような描写が登場する。

ここで思い出すのは、やはり「そこに無い家に呼ばれる」で示されている符合だ。幕間の中で三津田氏は、幽霊屋敷シリーズが持つ不気味な特徴について指摘している。それは数の増加、あるいは減少だ。

タイトルの文字数、収集された体験談の数、表紙の絵に登場する部品の数。

本稿ではこれをヒントの一種と捉え、一冊に収められた物語の数字が一つずつ増減するように本を収集してみた。

六つの物語

細かい試行錯誤の過程を説明することは重要ではない。なぜタイトルの文字数ではなく物語の数にこだわったのかもロジカルに説明することはできない。ここではトップダウン式に関連する本を列挙する。

七:怪談のテープ起こし
六:どこの家にも怖いものはいる
五:わざと忌み家を建てて住む
四:そこに無い家に呼ばれる
三:のぞきめ
二:忌録

まず一点、気になるはずのところを説明させてもらおう。それぞれの物語に登場する幕間パートは一冊ごとに一つの物語としてカウントさせてもらった。

それから、「忌録」の話である。普通に考えれば四話の体験談としてカウントするべきなのだろうが、これについては「インターネット上に存在する二つの怪談」としてカウントさせてもらった。

つまり、「みさき」と「綾のーと」の二本を一連の物語として見るということである。

残りの「忌避」と「光子菩薩」については、それぞれ先に挙げた「どこの家にも怖いものはいる」との関連をうかがわせるヒントが直接的に使われた物語だ。

つまり、こういう筋書きだとしたらどうだろうか?

物語の編纂者である阿澄思惟氏はインターネット上に存在する「みさき」「綾のーと」が「どこの家にも怖いものはいる」に関連づけて語られる状況を作りたかった。しかし、何らかの理由(「みさき」と「綾のーと」の権利問題や、出版のタブーなどの理由)で直接的な手段が取れなかったために、創作である「忌避」と「光子菩薩」を加えて「忌録」という本を仕立て上げた、という経緯である。

繰り返すが、この場合「現実のレイヤー」で「みさき」や「綾のーと」、そして阿澄氏の背景をどれほどのリアリティで検証できるかは重要ではない。むしろ読者である我々が「幕間のレイヤー」に潜り込んだ気持ちになって、たくましい想像力でストーリーを考えることを楽しむべきであろうというのが本稿のスタンスである。

さて、暫定的な回答としてこの六冊の本を挙げたが、「一」に相当するものや「八」以上に相当するものはあるのだろうか?それはわからない。もしかしたら、わからない方がいいのかもしれない。

日本でオカルトに興味を持つ人なら思い至るものがあるだろう。学校の七不思議だ。七つ目の怪談を知ったものは自身も怪異に巻き込まれてしまう。感染型の実話怪談のプリミティブな形の一つだ。

その例に従うなら、我々は六つの物語を知った段階で満足した方がいい。

もっとも、これから暴き出す隠された怪談こそが最後のピースになるのかもしれないが。

どんどん進めて行こう。

ここからは幕間の構成にならって、物語に登場する共通点について考察して行く。一つ目は「雨」と「酒」だ。

「あの家に呼ばれる」および「この家に囚われる」で語られる物語の中では、雨の日に酩酊した人物が怪異に出会い、そのままどことも知らない場所へ連れ去られるという出来事が描かれている。これらのキーワードから、各体験談を読み解きたい。

まずは「雨」だ。

・「階段のテープ起こし」では「水」を共通点として怪異を読み解く中で、「雨」にまつわるものが数多く登場する。具体的には、「留守番の夜」「集まった四人」「黄雨女」「すれちがうもの」などの体験談に「雨」が登場する。
恐らくは「水」という解釈自体が六つの体験談を全てカバーするために緩く設定されたものであって、本質は「雨」なのでは無いだろうか。
・他に「雨」が登場する作品としては、「幽霊物件」「黒い部屋」「綾のーと」などがある。

次に「酒」である。

・「死人のテープ起こし」に登場する語り手(サンプルA、サンプルB)は酒を飲んで酩酊した状態で登場する。特にサンプルBは奇妙な何かに遭遇したらしい描写があり、「酒」が何かを呼ぶものであると解釈する余地がある。
・「すれちがうもの」についてはある仮説を提唱したい。冒頭で登場する花の生けられた瓶はカップ酒の瓶なのではないだろうか?さらに言えば、これは「綾のーと」で語り手が使ったカップ酒の空き瓶と同質の「お供え」なのではないだろうか?二つの物語が直接繋がっていると考えるのは苦しいが、そこには何かのコードが存在するのではないか。

二つ目の共通点は「山」だ。

関わる作品こそ少ないものの、その繋がりには重要なものを感じさせる。

関わるのは「集まった四人」と「のぞきめ」、特に「覗き屋敷の怪」だ。まず前提として、両方とも山道に関連する怪談である。そして獣道を抜け先にある巨石が境界線のような場所として登場する構成も似通っている。怪異の影響が目、あるいは視線によって現れるというのも、やや差異はあるが無視はできないだろう。

また、登山とまでいかない例でも、「異次元屋敷」や「黒い部屋」、「あの家に呼ばれる」では山に入った人物が怪異から影響を受けたと考えられる例が登場する。

六人、あるいは

この一連の怪談に出てくる共通点の中でも、特に気味悪く感じられたのは、「六人の人間が集まった中で発生する事故や失踪」だ。

・「光子の家を訪れて」では、父、母、長女、次女、三女、長男の六人家族が登場する。このうち三女以外は最終的に、まるで異次元に引き込まれたような状態で発見される。
・「みさき」では霊媒の場に祖母、父、母、喜代子、記録者。そして呼び出されるみさきの六人が登場する。そもそもこの霊媒に登場するアイテムからして六つの「人」という漢字を組み合わせた模様が描かれた木札だ。怪しすぎる。
・創作認定してしまった「忌避」でもやはり儀式の場面が描かれ、取材者、高村、康義、真沙子、清美、そして途中で存在が明らかになる「まや」が登場する。これはおそらく「みさき」で描かれた儀式の印象を強化するための描写だろう。
・「終い屋敷の凶」では惣一、義一、訓子、勘一、季子、昭一、雑林住職の七人が亡くなっている。
六人ではなく七人なところは多少引っかかる部分ではある。物語の前に亡くなった惣一を外すか、亡くなった状況の定かでない(語り手が「身体を不自然に捩った住職の姿が、まざまざと私の脳裏に浮かんだ」と勝手に他の変死に結びつけているだけである)雑林住職を外すかするべきだろうか?現時点では判断がつかない。

これらの現象の正体は、「白い屋敷」に登場する七人みさきに求めることができるだろう。この体験談の語り部は、七人みさき、あるいは七人の家族を象徴する人形が六人になった時点でよくないことが起きる、という仮説を立てている。

「六人の人間が集まった中で発生する事故や失踪」はこの現象と共通したものであると考えてまず間違いないだろう。そう考えると、「みさき」という名前にも何だか不気味な符合を感じる。

「わざと忌み家を建てて住む」全体の幕間パートでも、「赤い医院」や「青い邸宅」にやはり「六人」の符号が登場することが指摘されているが、ここまで多くの本にそれが掛かってくるとなると、一層の注意が必要だろう。

白くて黒い人

ここまではそれぞれの体験談に登場する共通点を中心に謎を追ってきたが、ここからは作品の中で放置された謎、掘れば違う景色が見えそうな要素について追求して行こうと思う。

「わざと忌み家を建てて住む」の幕間バートは他と比べても特殊だ。三津田氏の前に、奇妙な偶然や枯れ尾花では説明のつかない怪異が登場する。

前面が白くて背面が黒い人影だ。

単なる見間違いでないのなら、かなり奇怪な存在だ。幕間パートの締めで明かされる推理をもってしても、この奇妙なビジュアルを説明するには至らない。

前面が白くて背面が黒い存在。謎である。いかにも怪談らしいそれっぽい推測をこじつけることすら難しい。

パンダだろうか?シマウマだろうか?どちらも作中の特徴と一致しないし、怖そうでもない。第一、食物連鎖の中でそれほど力強い存在でもないのだ。

奇抜な体色の生き物というのは、毒を持っているものか隠れるのが得意なものと相場が決まっている。そして、白と黒の組み合わせとなると、後者がほとんどだ。

前面が白くて背面が黒い存在は果たして天敵から身を隠す必要があったのだろうか?謎は深まるばかりである。

タブーの存在

そもそも、我々が立ち向かわなければいけない隠された怪談というのはどういうものなのだろう。作中で推理により明かされるような真実と、隠されたままの真実、その違いは一体どこから来るのだろう。

一つの解釈は、三津田氏自身や編集者の三間坂青年などを含む関係者がすでに怪異に深く関わっているために、自由に活動できなくなっているというものだ。実際、「そこにない家に呼ばれる」終盤は明らかにそう読み取れるような演出がなされている。

もう一つ、検討すべきは「タブー」の存在だ。ホラー作品の恐怖は異なるもの、知らないものへの違和感や尊重されるべきものが侵食される気味悪さを取り扱うことが多く、必然的にタブーとされる物事への接近も多くなる。

「のぞきめ」の幕間パートでも、怪談で差別を助長する要素などを扱うことの難しさが語られている。仮に隠された怪談が隠されたままである理由にタブーが関わっているなら、できればあまり触れたくはないが、はてさてどう考えるべきだろうか?

三間坂青年の正体

実話怪談の形をとっている以上、シリーズには仮名が数多く登場する。特に「どこの家にも怖いものはいる」ではわざわざ仮名から元の名称を突き止めるような努力は無駄だと釘を刺されたりもしている。しかしその一方で、いくつかの仮名は元の名称の痕跡をある程度残していることが示唆されてもいる。

実際、仮名を使っていながら名前自体で謎解きをされるような人物も登場する。
「集まった四人」の山居章三や「屍と寝るな」の鹿羽洋右、「覗き屋敷の怪」の城戸などがそうだ。

おそらくこれらの人物はそれが出来るように仮名を作ったのだろう。あるいは怪異の一部や亡くなった人であるからとそのまま名前を使ったのだろうか?いずれにせよ、作中に同様の事例がないとは言い切れない。

三間坂青年について考えてみる。おそらくは、彼と三津田氏が「頭三会」、あるいはそれの元になった集まりを作ったことは事実と考えていいだろう。そこで嘘をゼロから創作する意味は薄い。

フェイクの度合いについての手掛かりはない。あえて鈍感に考えれば、三間坂青年が実際に名乗った名前にも「三」が入っていたのではないか、ぐらいの推測は成り立つ。

それを踏まえてあえてこういう説を打ち出そう。
三間坂青年は、本当はこう名乗ったのではないだろうか。

「僕の家は三河屋なんです」あるいは「僕の名前は三郎なんです」

川谷妻華

突然の内容に困惑したことかと思う。しかしここでは一度詳細は置いておいて、もう一つ気になる名前を紹介したい。

川谷妻華である。ご存知の通り、彼女もまた幕間パートで名前の謎解きが行われた人物の一人だ。「幕間のレイヤー」での謎解きをしてもいいなら、「現実のレイヤー」で別の解釈をしてはいけないという法はあるまい。

例えばこうだ。

作中では川谷妻華という名前が、本当の名前から反転させた要素、あるいはそのままの意味で字面をずらした要素で作られていると推理している。
その理屈を転用して、「川谷」という名字から「磯野」という名字を逆算することは可能だろう。

次に下の名前について考える。「華」の字をよく観察していただきたい。

画像1

この事実に気づいたとき目眩がした。

「磯野」「妻」「サザエ」。この並びが指し示す人物はフグ田(旧姓磯野)サザエその人でしかあり得ない。

そう考えると「洋梨のような」「瓢箪のような」印象を与えるという外見についても作中とは別の解釈ができるようになる。証言をした人たちはサザエさんの特徴的な髪型の印象のことを話していたのだ。

七人

実のところ、七人みさきの符合が浮かび上がった時点で予感めいたものはあったのだ。

サザエさんを含む磯野家は波平、フネ、サザエ、マスオ、タラオ、カツオ、ワカメの七人家族である。日本一有名な七人家族である。「タマもいるですー」「ニャー」などと言っている場合ではない。

タブーであるわけだ。何しろ他人の著作を怪異と結びつけるなどプロが生半可にやれることではない。

しかし、川谷妻華の正体がサザエさんだったからと言って、七人みさきの正体が磯野家だったとして、作中で発生している現象は一体何なのか?改めておさらいする必要がある。

白くて黒い人の正体

どうだろう。前面が白くて背面が黒い存在について、少しは考えてみただろうか?今こそ答え合わせのときである。

前面が白くて背面が黒い存在、それは魚だ。一部の魚は海面側の天敵から身を隠すために背面が黒い。そして海底側の天敵、あるいは標的から身を隠すために腹が白い。

鱈もそういう魚の一種だ。

とすると、前面が白くて背面が黒い人影の正体はタラちゃんだと考えるのが妥当だろう。

ここからは推測になるが、おそらく三津田氏はアニメに出てくるタラちゃんそのままの外見の人影を目撃したのではないだろうか?しかしそれをそのまま著作に登場させるわけにはいかず、このような回りくどいヒントでその正体を示唆したのではないだろうか?

酒、山、雨

ここまで来たら前半でピックアップした共通点についても解釈を示すべきであろう。

まず「酒」だ。

サザエさんの作中では、勝手口から三河屋の御用聞きである「サブちゃん」こと三郎が登場する。勝手口というのは「家」に対してズバリ「裏口」として機能する場所だ。

つまり「酒」はシリーズの中で「家」の形をとって現れる怪異に対してショートカットでアクセスするための要素であると解釈できる。

次に「山」「雨」である。

よろしければ、サザエさんのED「サザエさん一家」の歌詞をよく思い出してほしい。「白い雲」「ハイキング」などのワードが登場することに気づくと思う。

つまり、この怪異は雨の日に活動するのではない。晴れの日に山でハイキングをしているのだ。一見して雨の日に活発になるように見えるいくつかの怪現象は、ハイキングが中止になったので仕方なく街中や建物の中に現れた怪異の痕跡なのである。

「集まった四人」の内容を思い出してみて欲しい。あの体験談に登場する怪異が集中豪雨の上がった少し後に喜び勇んで山に登った背景が想像できることだろう。

また、この「サザエさん一家」の歌詞には、アニメ本編に登場しない「二階」が登場するなどの不可思議が指摘されている。体験談の中で物や場所が増えたり減ったりする描写との符合を感じないだろうか。

最後に幽霊屋敷シリーズの主役と言える「家」の役割について考えたい。

磯野家の家といえば、よく知られた平家の日本家屋だ。しかしシリーズに登場する家の多くは磯野家のような日本家屋ではない。

それもそのはずである。ここで注目すべきはEDのアニメーションに出てくる謎の一軒家なのだ。

先に触れたように、この怪異は普段山の中でハイキングをしている。そして彼らが最終的に帰って行くのは、山中に忽然と現れるコテージめいた一軒家。EDのアニメーションに出てくる謎の一軒家なのだ。

まとめると、こうだ。

隠された怪談の正体は七人みさきであり、彼らが引き起こす事件は、魅入られた人物が通常の世界から失踪するというものである。
この怪異はサザエさんに由来する表層的な要素を通して接触することがある。
失踪するその先、異次元とも称するべき場所を象徴するのが「家」である。

むすびの代わりに

一人で抱え込むにはあまりに大きな真実であった。しかし、真実に気付いた者として最低限の義務は果たしたつもりである。

不注意ゆえ、作中で示された描写を誤認していることもあるかと思う。可能であればこの文章を読んだ各々方にも自分なりの解釈を展開してみて欲しい。

さらなる議論の発展を願う。


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