#161 紅い杜を越えてゆけ【Jリーグ30周年 ガンバ大阪 vs 浦和レッズ 名勝負回顧録】第1位 AFCチャンピオンズリーグ2008第2戦 浦和レッズ1-3ガンバ大阪


1993年5月15日、華々しく開幕したJリーグ。
その翌日の5月16日、万博記念競技場で行われたガンバ大阪vs浦和レッズが、両者の因縁の始まりだった。
「Jリーグのお荷物」とさえ呼ばれた両者は同じ時期に栄華を築き、両者の対戦は「ナショナルダービー」とも称された。これまでこの両者が火花を散らした幾多の名勝負の中から、ガンバファン視点120%で印象的な名勝負をじっくり文章で振り返っていこうと思う。
栄えある第1位として振り返るのは2008年10月22日に埼玉スタジアムで行われたAFCチャンピオンズリーグ準決勝第2戦。真っ赤に染まった埼玉スタジアムの一角で青が燃える。これまで引き立て役としての業を背負わせられ続けてきた者達の矜持がこの日、遂に羽ばたいた。

第4〜10位



第3位


第2位




SUB:GK加藤順大,MF鈴木啓太,梅崎司,FWエスクデロ,高崎寛之
SUB:GK松代直樹,DFミネイロ,下平匠,MF武井拓也



煌びやかな存在感とビッグゲームとしての注目度とは裏腹に、ガンバにとって"ナショナルダービー"というフレーズは敗北と屈辱の連続だった。

ゼロックス杯に始まり、J1リーグ、天皇杯…2006年に浦和がタイトルを掲げた時、その傍で立ち尽くしかなかったのはいつもガンバだった。2007年こそゼロックス杯とナビスコ杯準々決勝の勝利が多少の慰めにはなったとしても、同年も夏頃までは首位を独走していたガンバにとって「ここを越えればもうガンバが優勝だろう」という局面でのリーグ戦では敗れ「本当に大事なところ」ではいつも浦和を上回れない。そしてその数ヶ月後、浦和が埼玉スタジアムでACLのトロフィーを高々と掲げ、クラブW杯というFIFA主催の公式戦の舞台でACミランと戦う───「攻撃サッカー」として持て囃され、何より自分達自身が誇りとしていたそのスタイルでさえも、過去にサッカースタイルを称賛された数多くのチームが堅守を武器とする堅牢なチームを前に"グッドルーザー"の業を背負わされた歴史の習わしに乗せられたような感覚さえ抱いていた。世間から見れば注目の一戦とされ、その節の中で最も期待の視線を集めるカードだったという価値以上に、ガンバ側が感じていた"敗北感"と"引き立て役感"の屈辱は日に日に増していた。

同年5月のリーグ戦はガンバが勝利したが、それでこれまでの屈辱が晴れる訳でもない。リベンジを果たした訳でもない。その勝利を「リベンジ」と呼ぶには、その為にはそれだけの舞台が必要だった。そして期せずして、その舞台は最も待ち望んだシチュエーションで訪れる事となる。
2008年10月、ACL準決勝……日本勢同士がACLの舞台でぶつかるのはこれが初めてだった。


前半、主導権を握ったのは劣勢が予想されていた浦和だった。
出場停止選手が3人いた事や、ガンバホームで1-1に終わった第1戦のアウェイゴールでアドバンテージを得ていたのは浦和だった事、そして「攻撃のガンバ・守備の浦和」が当時のこのカードの大前提とも言えるキャラクター構成だったが、浦和のゲルト・エンゲルス監督は0-0なら浦和が勝ち上がれる前提を踏まえた上で「0-0で終えるのは難しい」と考えていたように、兎にも角にも先制点を狙いに来ていた。
ガンバからすれば、やや想定外なくらいに浦和が高い位置で押し込もうとしてきた事に少し戸惑った部分もあり、18分に山田暢久のミドルシュートをGK藤ヶ谷陽介がどうにか弾くと、21分にはガンバのビルドアップをカットした闘莉王のパスから高原が切り返してシュート。22分にもCKから決定的なピンチを迎えたガンバは36分、浦和のロングボールから生まれた混戦を最後は高原に叩き込まれて先制点を許す。その後もポンテが左サイドを独走するカウンターからエジミウソンがシュートに持ち込み、直後には高原のミドルがクロスバーに直撃。ガンバにとってそれは、想像よりも遥かに苦しい前半だった。浦和が「ガンバ相手に0-0は厳しい」と考えていたように、ガンバからすれば「浦和相手に2点ビハインドはきつい」という感覚があっただけに、先制を許してからも喰らった猛攻には見ている側としても度々心臓が止まるような感覚に至る。
前半は0-1の浦和1点リード。感覚としては1点ビハインドの感覚ではなかった。



だがそれでも、ガンバに焦りはなかった。見ている側が思っているよりも遥かに彼らは落ち着いていたのだ。
どのみち0-0であれば敗退だったガンバにとって、試合展開はともかく先制点を許した事でゲームプランが狂った訳ではなかった。「状況は同じだ」とハーフタイムに選手に言い聞かせた西野監督は後半から佐々木勇人を投入してシステムを4-2-3-1に変更。中盤の構成力をより強く押し出す布陣を採用する。変わらない意識の中で、埼スタの風向きはすぐに変わった。
51分、遠藤のCKにドンピシャで合わせたのは山口。西野ガンバのまさしく肝と言える2人の黄金パターン。これで2試合でのスコアが全くのイーブンになる。仮に2-2まで行けばアウェイゴールでガンバの勝ちだ。撃ち合う事で成り上がったガンバ大阪というチームが、浦和を自分達の最も得意なフィールドへ引き摺り込む。真っ赤に染め上げた者の殆どが浦和の勝利を願い、ガンバを物語の脇役に追いやろうとしていた埼玉スタジアムのフィールドは、いつの間にかガンバの為に用意されたような舞台と化していた。


「面目躍如」という言葉がこれほど似合う45分は、後にも先にもそう多く記憶にはない。「黄金の中盤」が織りなすパスワークに両サイドが次々と絡んでいく。ボールはこれまでガンバの夢を度々阻んできた浦和の守備網の間を嘲笑うかのように流れていく。西野監督が左SBの安田理大を下げて山﨑雅人を投入し、システムを3-5-2に変更した直後だった。1点目と同じ遠藤の右からのCKに合わせた明神のシュートはGK山岸範宏の頭上を超えてゴールに吸い込まれていく。

一瞬の静寂に包まれた埼玉スタジアムは、まるで静寂に包まれた事実を覆い隠そうとするかのように浦和レッズコールを絞り出す。埼玉スタジアムはこの瞬間、戦場から劇場に変わり、ガンバは踊るようなパスサッカーを繰り広げていった。
遠藤が右に展開し、ルーカスが中に折り返す。橋本英郎がダイレクトで左に展開すると、走り込んだ遠藤がワンタッチで……。ゴールの隅に流し込まれたボールがそのネットを揺らした時、間違いなくこのチームは"伝説のチーム"と呼ばれるに相応しいだけの輝きを誇っていた。そしてそれはこれまで、何度大事なところで敗れようとも、何度引き立て役の業を背負わせられようとも変えることなく貫き続けた信念が、これまで行く手を阻み続けた紅き杜の向こう側に辿り着いた瞬間だった。


「浦和とは違うスタイルでアジアを獲る」───1974年W杯で堅牢な西ドイツの前に散ったオランダ代表とヨハン・クライフをこよなく愛した指揮官は、浦和がACLを制覇したその日からこの言葉を強く言い続け、自身も強く意識していたという。誇りと愛憎、プライドとリベンジ…ガンバが歩んだ千夜一夜物語のようなACL結末がハッピーエンドである事を疑う要素はもうどこにもなかった。
埼スタでの歓喜から2ヶ月後、日本で「赤い悪魔」と呼ばれたアジア王者を倒したガンバ大阪は、世界中から「赤い悪魔」と呼ばれた世界最強のチームに青のアジア王者として立ち向かっていた。もちろん、これまで貫き続けた変わらない己のスタイルで……。



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