自然言語とプログラミング言語の違い

プログラマをやっていると、特にコードや数式を読む思考回路で普通の文章を読んでいると非常に冗長に感じる事が多くなってくる(ただ単に歳を取って長い文章を読むのが辛くなって来た事の言い訳に過ぎないのかも知れないが)。自然言語とプログラミング言語(法律や数学も含む)の大きな違いは、Read/Writeという機能の違いにある。Read言語は伝達のため、Write言語は操作のために作られている。数式、プログラム、法律のような操作言語で書かれたものには、まず仕様とも言えるような明確な目的がある。現象の記述や予測、コンピュータの制御、制度の実施や執行などである。一般的に目的を持たない機械はない。包丁はものを切るため、エンジンは推進力を得るために作られる。操作言語で書かれたものには、このように機械の機能に相当するような目的がある。一方の伝達言語には、機械が持つような明確な目的がないものが多い。ただ単に頭の中にあるものを外にダンプしただけに過ぎない。何かを操作するとかいう目的はない。ただ伝えるためだけに存在している。

まずこの明確な仕様がないという事が、伝達言語の持つ曖昧さの根本的な原因になっている。何をするための文章や言葉なのかというのが定義出来ないのである。仕様が存在しないので作成者の意図が共有されないのである(そもそも意図など存在せず、ただ知っている事、感じた事を表現したいだけという場合もある)。従って伝達言語には常に意図を想像するという作業が発生する。包丁の存在理由は何だろうかなどと悩む人はいない。それは誰にとっても明確である。数式やプログラムや法律もそれが何のために作られたのかを想像するという事は普通はしない。それが作られる前に皆で話し合って決めるからである(偶然の発見を除いて)。即ち仕様策定や設計というプロセスを経ているのである。伝達言語には設計プロセスが存在しない。設計の更に上流には問題定義がある。操作言語には多かれ少なかれ問題を解決するという役割が存在しているのである。

伝達言語には目的がない。これは目的や役割がないものがなぜ存在できるのかという、より深い問いをもたらす。ほぼ確実に分かっている事は、伝達言語は頭の中にある何かを表現したものであるという事である。それは膨大な数の神経細胞の活動によって生み出されている一種のコードである。その神経コードが存在している事だけは確実だ。神経コードを声帯や手という効果器を通して表現したものが伝達言語あるいは自然言語である。

伝達言語は他人と神経コードを共有するために生み出されたものである。伝達言語は神経コードが自分の存在を他人に知らしめ、また自分自身の存在を確認するためにある。これは言葉を発せない状況を考えてみれば良く分かる。全身の筋肉が弛緩して植物状態になり意思表示が出来ない患者、言葉を発せられない乳児、ネグレクトのような虐待を受けている子供、言葉も見た目も全く違う外国で一言も会話出来ない状況がまさにそのような感じではないだろうか。声やジェスチャーを使って他人(あるいは動物)と触れ合えないと、自分自身の存在感がどんどん希薄になっていくのである。そして人はこの存在感の消失に対して本能的な恐怖と不安を抱いている。

人間の感情や思考は同じのものとしか同調出来ない。石や植物のような感情を持たないものとは同調出来ない。感情や思考がそれ自身の存在を確かめるためには、同じ感情や思考を有する存在が不可欠なのである。普通の人間であれば、洞窟などの人も動物もいない場所に何年も閉じ込められたら、例え食料があって生存出来たとしても、感情や思考を保つ事は出来ないだろう。少なくともそれが非常に困難である事は容易に想像出来る。即ち心理的に自分という存在の確証を得るためには、他者(思考や感情を持った存在)が必要なのである。自分の存在が消失する事になぜ不安や恐怖を抱くのかといえば、それは死を強く連想させるからだろう。伝達言語は自分自身の存在を確認するための手段、死への抵抗と考えられる。これは伝達言語に限らずあらゆる生存本能に共通している。自然言語の源流が生物の生存本能(特に感情や思考に関するもの)に帰着するのではないかという1つの視点である。

伝達言語と操作言語とのもう一つの根本的な違いは、伝達言語が使い切りであるのに対して、操作言語は使い回すものである。伝達言語は神経コードに対する一種のフィードバックの役割を果たす。感情や思考をもたらす神経コードは伝達言語によるフィードバックなしには、自分自身の存在を確証したり知覚したり出来ない。伝達言語は肉体に対する食料と同じような働きを持っており、伝達言語によるフィードバックが絶たれると神経コードは兵糧攻めに遭い恐らくいつかは消失する。実際にうつ病などのストレス下では神経接続が弱くなると言われている。これは神経コードの消失と同じ意味である。思考や感情はその生存のために定期的な食事を必要としている。だから伝達言語は再利用出来ないのである。お金と同じく常に生み出されては消費されていくものだ。操作言語は一度作ってしまえば何度でも使える。ピタゴラスの定理など2000年以上に渡って使われ続けている。伝達言語は感情や好奇心が腹を空かせるとその度に生み出さなくてはならない。同じものを食べ続けているとすぐに飽きてくるという特徴もある。

瞑想は伝達言語によるフィードバックを断ち切る事から始まる。感情や思考が死に絶えると死への恐怖もなくなる。自我に対する執着が消えるのだ。経文や秘教書には繰り返しの表現が多く見られる。また経文自体も繰り返し使われるものである。もし万物の法則を記述する方程式があるとすれば、その法則は時間と空間を超えて普遍的に存在してるはずである。それは一種の操作言語のようなもので記述されるだろう。あるいは記述という主体と客体の二元性をも超えたものなのかも知れない。

操作言語には新たなコードを生み出す力がある。憲法やDNAが国家や細胞の行動を司るコードだとするならば、そこにはある種の生命が宿っている。あらゆる顕現物の種は操作言語である。伝達言語を生み出すものは死への恐怖、感情・思考などの自我または生そのものへの執着であり、それは生み出された瞬間に消費される。生まれては消えていく幻想のような存在である。言語は宇宙を記述するために存在している。感情や思考を餌付けするためではない。

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