先祖の守護霊について

一人一人の人間には先祖の守護霊が付いていると良く言われる。デバカンと言えども完全なる休息とはいかなそうである。自分の祖先の多くが涅槃に入り人間の進化段階を終えているとは少し考えにくい。もしこれまでに死んでいった人類の半数以上が涅槃に入ったのであれば、地上の人口は常に減少傾向にあるはずである(そう考えると少子高齢化は経済発展から精神発展への社会的シフトとも捉えられる)。人口増加は人類が集団的に涅槃から遠ざかっていることの反証ではないだろうか。ともあれ、涅槃に達していない進化段階の魂は、恐らく集団的(主に血縁的)カルマと転生を跨いだカルマの両方からの影響を受けていると考えられる。つまり地上で生きている人間とその祖先の魂とは血縁のカルマで繋がっているため、子孫の進化を手伝う必要性があるのではないかという話である。自身のカルマは解消できなくとも、集団的カルマの浄化に貢献できるので、長い目で見れば僅かながら涅槃に近づくことになるのかも知れない。またこれは後のディアンショハンとしての仕事の前哨戦かも知れない。

リピカ・リピタカのようなアカシックコーダーは少なくともマナサプトラ以上の進化段階にある者達だろう。転生の必要もなければカルマとも無縁である。彼らはむしろカルマを設計し施行する者達だ。いわゆる先祖霊と生きている人間との違いは肉体があるかどうかだけで、カルマを背負った魂であることに本質的な変わりはないのではないだろうか。もちろんカルマの主と生きた人間との介在役を勤め上げるためには、自然法則を理解するための明晰な精神と、地上に干渉しない無私の純粋さや利他性を持っている事が必要な条件である。先祖霊に出来る事と言えばテレパシーでアドバイスを吹き込んだり、カルマの主の手足として動く事くらいではないだろうか。もし地上に生まれた後にそれら全ての記憶を残していたら、かなり厄介な事になる。カルマの法則の詳細は人生をハックする強力な武器になり得るからだ。E=mc2の発見が20万人を一瞬で気化させた例からも分かるように、自然法則の開示は人類に大きなカルマを背負わせるリスクと常に隣り合わせである。それは進化の道を進むより、自我の欲求に忠実である事の方が、短期的な視野で言えば誰にとっても楽だからである。カルマの法則の詳細を知ったところで、それに従い正しく生きるよりも、その裏をかいて人生を思いのままに操ろうとする人達の方が圧倒的に多いからだ。魂だけの状態の時はそんな事は考えさえしなくても、肉体を伴った時、他の人間からの影響を受けた時、同じ正しい判断が出来るという保証はどこにもない。真理を探求する事で人間は進化する。しかし真理を他の人間に開示する事でその人達の進化を直接助ける事になるのか、むしろ阻害する要因になりはしないか、その正しい判断を下す必要がある。もし正しい判断が出来ないのであれば、せめて多くの人達の進化を直接的に手助けするべきである。正しい意図から悪い結果は生まれない。カルマの主の視点を持てば、人類がカルマの火に油を注ぐのを防ぐためにも、内に留めなければならない真理がある事も確かである。真理そのものに毒はないが、真理と人間の欲が掛け合わさった時にカルマの種は蒔かれる。従って一方を打ち消す必要がある。欲がなければ真理は毒にならない。打ち消すべきは真理ではない。

守護霊に行動と頭の中身を四六時中監視されているというのは、あまり気分の良いものではない。しかしこの気持ち悪さこそが、自分自身の内なる敵を発見する強力な索敵レーダーなのだ。思考や行動が間違っているという自覚がありつつ、この監視されているという気持ち悪さもなくなった時、守護霊との接点は完全に消失している。いわば自我という殻の中に魂が閉じ込められた状態である。その時は一切の繊細な感覚も感情も届かなくなる。自己正当化を含めて何かしらの欲という感情だけが明確に知覚できる。この時の自我はカルマに対して非常に脆い。目隠しして運転しているようなものだが、恐怖の感覚すら麻痺してしまっている。守護霊のような視点を常に内在化させられる人間が秘教の弟子だが、それは簡単な事ではない。むしろそれが出来る人に守護は必要ない。

霊とは肉体を伴わない魂である。人間は魂と肉体の複合体であるが、肉体の知覚を通してしかその存在を確かめられない。実のところ、ほとんどの人は肉体しか見えていない。肉体の目は肉体のみを見て、魂の繊細な感覚器官は魂だけを見る。繊細な感覚器官が発達していなければ、そこから見える世界に魂は存在しないも同然である。人間の精神は魂から発せられ、肉体の脳で反射する。人に心があると思えるのは脳が言葉や行動を生み出しているからであるが、脳同士は五感を通してしか互いを認識出来ない。そのループは肉体の次元の中で閉じている。全ての物質は真空あるいは時空が相転移したものである。肉体・脳・五感もその例外ではない。精神とは真空の波動関数をフェルミオンやボゾンのような物質と力の粒子の波動関数へと収束させるラグランジアン(ポテンシャル井戸)である。演算子であるエネルギー関数やそれらの対称群を精神と言ってもいいだろう。精神とは多様体であり、幾何学図形であり、プログラムであり、音楽であり、マンダラである。波動関数を収束させるもの、真空や時空を物質へと顕現させる演算子である。そういう何もないところに、あたかも何か(物質)があるようにみせかける、表現である。インクは物質だが絵画は精神である。音は物質(空気の振動)だが、メロディーは精神である。コンピュータは物質だが、プログラムは精神である。

肉体の世界では生きた人間しか見えない。クジラやイルカは超音波で会話している。地球上のあらゆる都市を繋ぐ通信網つまり大気中には、電話する人々の会話・チャット・動画・音楽・銀行や株取引などの膨大な情報が飛び交っている。しかし人間の五感からすればそれらのどれも存在していない。適切な変換器を使って感覚器官が知覚出来る周波数や信号レベルに増幅する必要がある。もし生身の身体で電波を傍受できる人間がいたら、それはそれで安全やプライバシー上大きな問題になる。我々の肉体の目には見えないが、インターネットのトラッフィックの背後には数十億人の人達の生活がある。人間は勝手に一人で孤独を感じる事は出来るが、実際に孤独になる事は決して出来ない。人が孤独という錯覚を生み出す原因は肉体の感覚にある。肉体の感覚で捉える世界の中だけに自らの精神を閉じ込めてしまう事、肉体を持った人間だけが唯一の繋がりを持てる存在であると信じ込む事、そうした視野狭窄が孤独感の根本的な原因である。肉体を持って生きている人間同様に、肉体を持たない精神も、人間の規模を遥かに凌駕する宇宙的知性も周囲には溢れ返っている。人の心は言葉や行動を通してしか見えない。しかし魂の数は人類の数よりもはるかに多く、多種多様であり、あまねく存在している。言葉は肉体の補助器具である。言葉を介さずとも、心の照準を合わせるだけでそれらの精神と対話なり融合することが可能である。日常の言葉でそれは閃きとか、アイデアが降りてくるとか、理由のない幸福感とか、何かいい予感とか、夢のお告げなどと言われる。宗教的な啓示と捉える人もいる。人間を超えた知性や魂は星の数ほどいる。我々も彼らの一部である。人間は決して孤独になる事が出来ない。孤独なのは肉体の感覚に縛られた精神だけである。

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