サムライ同仁斎

(動画を拝借します。)


お茶を点てる。

賑やかな茶会は好まない。

たしなみはいつも、同仁斎スタイル。

客人は招かず

たった一人でお茶をたしなむ。






”ダンサー”としての自分は

最初から「掟破り」で「型破り」の人間だった。

「常識・伝統なんて言葉がコイツにはあるのか?」

そんな風に言われてもおかしくないぐらいだった。

だから、まさか自分がお茶を点てるだなんて

当時を知る人間は誰も信じないと思う。

それぐらい、型破りで掟破りの”ダンサー”だった。







『一人の人間としてと、”ダンサー”としての自分は別人』

初めからそうだった。

多重人格だからか?その辺はよくわからない。

とにかく最初からそうだった。

”ダンサー”としては、普通の人間の感覚ではなかった。

もはや狂気であった。


『普通の人間なんか見たって、面白いはずがない』

「芸」と呼ばれるものを見る時

日常生活が見える一般人なんか見たって面白いはずがない。

「芸」ではない「趣味」など、

カネを払って見に来る客は、誰一人期待していない。

「芸」を極めた”アーティスト”がやるからこそ、

カネを払ってまで見る、価値がある。




だから個人的には

アーティストに「いい人」など求めるほうが間違っていると

アーティストが芸ではないプライベートを売る方が間違っていると

ずっと昔から思っている。

本物のアーティストは必ず「芸」で勝負する。

プライベートなど売る必要がないぐらいの圧倒的な「芸」。

その「芸」を本当に極めた時

至高のアーティストではあるけれども

1人の人間として見た時には、どこかしら狂人にうつってしまう。

それが本物のアーティストの宿命である。

至高のアーティストになるためには

どこかの部分の普通の人間の感覚を捨てないといけない。

それが本物のアーティストの不文律でもある。





『掟ナシ、型ナシではない』

自分にとっての「掟」とは

① 芸でしか勝負しないこと

② いつなんどきも最高の芸を披露すること

③ 自分の芸を貫き通すこと

この3つが”ダンサー”としての自分の「掟」である。

普通「掟」と言えばコミュニティー内のルールのことを指す。

それが「常識」と言われるところだと思う。

しかし、”ダンサー”である自分はそれとは意味合いの異なる

「掟」を持っていた。

また、「型」とは普通「伝統」に直結する部分だと思う。

少し具体的に話すと

「クラシックバレエならクラシック音楽で踊る」

「ブレイクダンスならブレイクビーツで踊る」

「ディスコ派生のオールドスクールならソウル・ファンクで踊る」

そういう昔から口述で伝えられたダンスの「伝統」「型」と言われるもの。

これに対して、自分はいつもこう思っていた。

「何故ダンスの型を音楽に当てはめようとするのか?」

少し前の記事に書いた通り

自分にとって、ダンスは「あくまでも音楽表現」だった。

だからこそ、音楽あってのダンスだと考えており

その音楽表現をするのであれば、

ダンスの型に拘り過ぎる方が表現の災いになる

そう思っていた。

言い換えると「音楽が最優先」というのが自分の「型」だった。

だから、ダンスの型の伝統を重んじる人間からすると

それが理解不能なところだったのだと思う。

真逆の型だからだ。





型ナシと型破り

掟ナシと掟破り

二つの言葉は全く意味が違う。

自分の場合は、

ダンスの世界で一般的だと言われる「型」や「掟」から見ると

それが「型破り」「掟破り」ではある。

しかし、自分の中で「型」も「掟」もきちんと持っているので

「型ナシ」「掟ナシ」ではなかった。

それは、確かだった。






ソリストになってからは

この『samurai』という曲をよく好んで聴き、

1人の人間として、よくお茶を点てたものだった。

狂気に満ち溢れた”ダンサー”であるためには

この時間がどうしても必要だった。

4畳半の同仁斎に、刀は持ち込めない。

サムライもお茶をたしなむときは

1人の人間である。






拙い文章お読みいただきありがとうございました。


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