*超大作*  執筆あとがき




数学とは「未来への哲学」である。




過去に執拗なストーキングと凄まじい誹謗中傷に遭った自分は

その時にいわゆる「精神論の哲学書」を一切読まなかった。

なぜか?

「他者の気持ち派生の言動によって自分がクラッシュしたのに

 人間の精神を他人の言葉で説く哲学が自分に響くわけがない」

と思ったから。

本当に他者によって人生を狂わされた人間にしか絶対にわからない

人間不信の極限の境地である。

本当に極限の境地に行った人間には

他者の言葉は響かないのである。

この極限の境地にたどり着いた人間には

生きるか  死ぬか

この2択しかなく、逃げ道はない。

自分はあのとき生きる方を選んだ。

しかし、一度極限の境地に行った後遺症というのは想像以上に根深いもので

やはり、他者の言葉は響かないのである。





その時に自分が「生きる」を選択したきっかけになったのが

一冊の数学書だった。

他者の言葉が響かなくなった自分にとって

「誰が見ても意味が違わず目に見えるカタチできちんと証明ができる」

数学は、救世主となった。

哲学を説くような言葉というのは使う人間受け取る人間の双方によって

如何ようにも変容する。

ふんわりとしたり  ぼんやりしたり

ズバッとしたり   ドスンとしたり

また、その言葉が直接的なのか間接的なのか

意図的な言葉なのか自然な言葉なのか

はたまた真実か嘘か

といったどうとでも解釈の出来るような非常に曖昧な使い方をされる上

使う人間と受け取る人間の解釈によって食い違うことも多々出てくる。

さらに、言葉には感情が宿る。

同じ言葉を発したとしても

嬉しいのか  悲しいのか  喜びなのか  怒りなのか

感情によっても言葉は変容する。

どうとでも解釈の出来る、しかも感情の宿る非常に曖昧な

言葉。

その言葉そのものは目に見える証明ができない。

真実か嘘か、どういう感情なのか、意図的なのかどうか、間接直接、

すべて目には見えない。

言葉を文字に起こしたとしてもその言葉の真髄がどこにあるのか

それは言葉を発した人間にしかわからない。

言葉を受け取る人間はあくまでもその一端を受け取っているにすぎず

すべてを理解することは不可能なのである。

ゆえに、言葉そのものは目に見える証明ができない。

しかし、数学では言葉では絶対に出来ない

「誰が見ても意味が違わず目に見えるカタチできちんと証明ができる」

実にシンプルで清々しいほどにわかりやすい。

これに気が付けた時に

「今までなんて曖昧なものに振り回され続けたんだ。バカバカしい」

と素直に思った。

そのことでさらに他者の言葉が響かなくなり

それと反比例するかのように数学を愛することとなった。








今回は、

過去に自分が証明した三角関数の定理について

その時に使っていたノートが参考資料となっている。

特別難しいことはやっておらず

”基礎中の基礎がいかに大事か”

を自分が今一度理解する意味も込めて執筆してみた。

また、参考資料はあるけれども全てイチから自分で証明をやった為

完成までに3日かかっている。

ただの丸暗記で済まされていた基本公式、基本定理をひたすらに証明する

この3日間というのは、自分にとって幸せな時間でもあった。

その証明できたものを出来るだけ分かりやすく人に伝えるため

ところどころに「自分の言葉」を使っている。

本当に何かを人に伝えたい時の言葉というのは

「実にシンプルであり明瞭である」

そこもひとつの見どころかもしれない。







数学というのは一見何の役に立つかもわからないものである。

人によっては

「こんなもの学んでも意味がない」と口に出すぐらい

意味のないものかもしれない。

しかし、自分にとっての数学というのは

非常に曖昧な意味を持つ言葉を使った一般的な哲学に比べると

遥かに価値のある実にシンプルで分かりやすいものであり

混沌とした昨今誰しもが目に見えないものに悩み振り回される中で

清々しいほどに目に見えるカタチできちんと証明をする

見事なまでに美しいものである。

また、個人的に数学は「未来への哲学」であるとも思っている。

数学でいう

<定理>とは「格言」のことであり

<証明>とは「格言が出来た背景・経緯・由来」を指す。

一般的な哲学と同じ。

ただ、数学の<定理>は

出来たその瞬間、発表した瞬間には誰にも理解してもらえない。

理由は

「その瞬間以前にそういう概念がないから」

その定理を作り証明した本人にしかその価値がわからない。

同じ数学者でさえこれが真か偽か意見がわかれたりもする。

それぐらい新しく生まれた<定理>とは未知なもので

真とされるまでに相当な年月を費やすこともある。

そして歳月を経て真とされた<定理>が一般的になったころには

<証明>という自分が存在した証を残し

もう本人がこの世にいなかったりもする。

新しく生まれた<定理>が世の中に一般化されるまでには

大なり小なりタイムラグがある。

言い換えると、

新しく生まれた<定理>は常に世の中の先を行き過ぎていると言える。

そういう意味で

数学とは「未来への哲学」である。

と思っている。

その世の中の先を行き過ぎた<定理>を

理解しようとする人間もいれば理解することを放棄する人間もいる。

それは自由だ。

しかし、理解しようとし、自分で理解出来た人間にとっては

ひとつ新しい価値観が生まれ、それが知的財産となる。

それが理解出来た人間にしか味わえない極上の贅沢である。

そういう贅沢を味わえる人間が増えれば

これを執筆した意味があるのかもしれない、とも思う。

ただそれもやはり、自由なのである。






2018/10/16  






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