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【01】自己紹介

皆様、はじめまして。ブルーシンシアの黒川です。
今までは、商品開発やマーケティングばかりをガムシャラにやってきましたが、バングラデシュとブランドの発展を強く意識し始めたこのタイミングでnoteやXにて積極的に発信をしていこうと思いはじめました。

基本的には言語化やライティングは苦手な部類に入るのですが、無理のない範囲で発信していきたいと思います。

今回は、初めてのnote投稿なので、しっかりと山あり谷ありの人生の自己紹介をできればと思います。是非ご一読いただけますと幸いです。


自己紹介

名前:黒川 亮
誕生日:1987年5月18日
性別: 男
出身校:岡山県立水島工業高校
職業:株式会社ブルーシンシア 代表取締役
勤務地:岡山市北区下中野
趣味:読書、キャンプ、サ活、旅行、アニメ鑑賞、バドミントン、靴の収集
性格:好奇心旺盛、実質的、意思が明確
ストレングスファインダー5つの強み:個別化/学習欲/最上志向/着想/達成欲

経歴

  • 1993年 岡山市富山小学校入学
    スポーツ一家の影響で、4年生までは水泳。3年生からはサッカーのスポーツ少年団に入る。この頃は、没頭してサッカーをしているということではなく楽しいからやっているという感覚。運動神経も良い方だったため、努力もあまりせずある程度の結果が出ることに慢心していたと今では思っている。水泳もサッカーも求めている結果が出なかったのと飽きたため、小学生時代に始め辞める。勉強を真面目にした記憶は特になし。

  • 1999年 岡山市立富山中学校入学
    中学入学と同時に両親の進めでラグビーも始める。小学生時点では体格が良く足も速い方だったため、両親はラグビーをしてほしかったよう。ラグビーでも、中学2年生時点で中国地方のメンバーに選ばれるが、太ももの大手術によりラグビーを断念する。ラグビーと同時に学校の部活としてやっていたバドミントンでも、持ち前の運動神経と自宅でのバドトークにより中学1年生の後半で市の大会で頭角を表す。こんな感じで、中学時代は学校の鞄を持って行かずにバドミントンの鞄に教科書を入れていたようなハマったらとことんやる性格に変わっていった。これも、バドミントンの部活を自主的にできる状況だったのが良かったと今は思える。中学時代に母親に言われた一言が胸に刺さった「もっと賢い子かと思っていた」と言われる。このように、勉強は頑張ったとしても学年で180人中170番と決して勉強ができる子どもではなかった。

  • 2002年 岡山県立水島工業高校入学
    中学時代にバドミントンにて市の大会1位。県大会ベスト8の結果を出したおかげで、水島工業高校に推薦で入る。父親の「これからはパソコンが使えないとダメ」という考えのもと1番倍率が高い、情報技術科に入る。パソコンは大の苦手で1mmも興味もなく、情報技術科のテストやプログラミングではクラス40人中38番と苦手なイメージを払拭できず学生生活を終える。得意な教科は体育、美術。好きな教科は、英語。中学から始めたバドミントンの成績は、個人では中国大会準優勝。全国大会ベスト8。団体では、インターハイ準優勝。(同学年に全国優勝をする選手がいたため)今振り返ると、納得できない練習を強制されるのではなく、自分が納得できた練習を自発的におこないたい人間だったのが影響し、自発的な練習は少なかったように思う。ここが唯一の反省点。

  • 2005年(18歳〜25歳) JFEメカニカル株式会社に入社
    高校では中途半端な成績しか残せなかったにも関わらず、バドミントンで大学に行きたいという願望があった。その願望は叶わず、バドミントンで声をかけてくれたJFEメカニカルに入社。仕事が終わった18時から21時まで部活動を実施。社会人になって一番の衝撃は、給与が想像以上に少なかったこと。(月額1.5万円の寮に入っていたので支払うと、手取り9万円台ということは日常茶飯事)ただ、ボーナスはとても多く手取りで50万円ほど頂いていた。毎月の給与は少ない、周りからは良い会社だから辞めない方が良いという重圧、職場の上司からのイジメ、バドミントン部の上司からの仲間外れ問題、と18歳〜23歳まで様々な問題を抱えていた。その影響で、19歳の時点で鬱病となり命を断とうと考え、ベランダに足をかけたことを今でも覚えている。(自分の意志を隠すことが下手だったのが原因だったと今は思う)その頃に大好きだった車のHUMMER H2 に乗ってから死のうと思い愛知県尾張一宮でH2 に乗っているオーナーさんに当時流行っていたmixiにて連絡をし、会いに行く。憧れの車に乗れた高揚感と副業という新しい選択肢を知ったおかげで徐々に鬱病が良くなっていく。HUMMER H2 は車体価格だけでも900万円。維持費も多額の費用となるということでここあたりから、この頃からお金持ちになりたいと思うようになります。当時は誰も会社を辞めるような雰囲気ではなかったのと、レールの上を歩いてきた人生だったため、とても勇気がいったのが鮮明に覚えています。業務内容は、親会社であるJFEの鉄鋼機械のメンテナンス、発電機のメンテナンス、コンプレッサーの保全に取り組んだ。

  • 2012年(25歳〜28歳) 飲食店、BAR勤務(沖縄)
    20歳で知り合った友人が飲食店を経営しておりお店の従業員として誘われ3年ほど勤務。誘ってくれてなかったら、会社を辞めることができなかったと思うので感謝している。友人のお店は個人事業主として運営しており社会保険に入ることができなかったため、1日12時間の週6勤務の就業で、保険の支払い後で手取り14万円だった。時給は800円。友人のが巻き起こす多彩なトラブルの影響が重くのしかかってきたため退職。自身でお店を立ち上げるが、オープン2ヶ月でお店を閉じる。

  • 2014年 youtuber兼中国仕入れEC物販を開始
    飲食店の仕事をしているタイミングで、副業をやろうと思い立ちyoutuberとしてエンタメやゲームチャンネルを運営。飲食店の仕事が終わって動画撮影と編集に毎日投稿のため5時間使っていた。エンタメチャンネルをするも、全然面白くない人間ということに気づく。ゲームチャンネルをするも、壊滅的にゲームが下手なことに気づく。最終的なチャンネル登録者数は2600人。飲食店でスタッフとして働いていた時にお客さんとして知り合った大学生が中国仕入れEC物販をやっていたため、amazonでの裏技を教えてもらう。それがキッカケで小売の楽しさが加速していった。

  • 2015年 まごごろ屋の屋号にて開業
    沖縄を離脱後、岡山の実家に住まわせてもらい、1年間は生活費を0円にしてもらうようにお願いした。当日はyoutuberの収入も毎月10万円ほどあったので、EC物販とどちらかを選択するというタイミングだったが、商品が自らアピールして営業してくれる小売の方が生活費を稼ぐスピードが早いのでは?という考えでyoutubeを辞める。5万円の元手にてEC物販をスタート。まずは、売上が高そうな販売者さんをTTP(徹底的にパクる)にて追いかけることにする。画像も自分で作っていたフェーズでした。売れたら実家の母親に発送をお願いするという流れだったのが懐かしい。1日500円の商品が10個(売上5000円)売れたら達成感をとても感じていたのを思い出す。当時の取り扱い商品は、とにかく売れる可能性が高いものをたくさん扱っていた(パジャマ、ネックレス、スリッパ、バングル、さすまた等)

  • 2017年 株式会社Ars Entertainmentに法人化
    法人化のタイミングにて、オリジナル革ブランドBLUE SINCERE(ブルーシンシア)の展開を開始。優秀な方と仕事を一緒にするようになり、記憶力が他の人より圧倒的に低いのに気づく。(これの影響で勉強が全然できなかったと今では思っている)デザイン、マーケティングが大好きだったので、毎年昨対30%で会社が大きくなっていく。スタッフの雇用を積極的にしていったが、マネジメント、採用が当時は全く興味がなく、やればできた自身の経験を押し付けていたと今では思う。その結果、パフォーマンスがでない組織となり崩壊。その後は、正社員を雇わない方針に変更し、パートナーさんと強力なタッグを組み会社の業績を伸ばす。

  • 2023年 株式会社ブルーシンシアに社名変更
    デザイン、マーケティング、商品開発などが得意だったので業績は伸びてきたが、このままだと15億ほどで会社の成長が止まってしまうと猛烈に感じ、楽天市場の経営者教育プログラムである第1期NATIONS スーパーアドバンスに参加を決意。カンブリア宮殿にも出演した経営者や楽天市場を代表とする経営者のアドバイスにより、圧倒的にできてないこと、足りない部分を知る。会社は人なりということで、自分自身が全ての業務のディレクションを行ってさらに業績を上げていくことは不可能と感じ、強い組織づくりに舵をきる。このタイミングで、本当の意味でのブルーシンシアのストーリーがスタートした。


会社設立

親もサラリーマン、周りの友達もサラリーマンという環境で小さい頃から育ったので、サラリーマンとして生きていくことに1mmも違和感を感じていませんでした。
というか、小学生ではサッカー、水泳。中学生ではラグビーとバドミントン
。高校生はバドミントンと学生時代はスポーツしかしてこなかったため、その後の自分の人生を全く考えてきませんでした。
ここまで仕事を意識せず18歳まで生きてきたことが、今では信じられません。

沖縄で飲食店のスタッフとして働いていたタイミングでも自分で起業をしようという思いは全くなく、伸びている会社でしっかりと仕事をすれば旨味を少しでも享受できるのでは?とずるく甘い考えがありました。

ですので、当時は何かをしたくて起業したわけでも、社会を良い方に変えようという大志があったわけでもありません。
自分自身のことしか考えていない人間だったのは間違いないと思います。

実際に、創業当時はお金が無さすぎたため売れるモノをいかに高く売るには?ということばかり考えていました。
商品開発もせず、売れている商品を中国からスピーディに仕入れてすぐに販売、そのため商品へも気持ちが一切のっておらず、売上=嬉しさでした。本当に恥ずかしいです。
そこから、考え方がガラッと変わってきます。
広島で出会った経営者さんと一緒に中国に行き、オリジナルブランドを作るという動きです。
この動きにより、お客さんのニーズを把握し、商品に思いを込めて販売するということの重要さが腹落ちし、ここから一気にオリジナル商品の開発に打ち込むようになります。
お客さんのニーズを捉え、自分自身が考えた商品をとても喜んでくれるという体験をしたのがキッカケで売上を追う物販から卒業できました。
お客さんに育てて指導してもらったと感じています。

そこから2年ほど経ち、ふと自分もお客さんも喜び満ちていることに気づきました。
ここまで、ずっと自分は何のために事業をしているのか!?の答えは見つかっていませんでした。
自分やお客さんは満ちているのに誰かを置き去りにしているなと…
そう、商品をつくってくれている職人さんだ!!!
電気が体を走るような感覚がしました。
自分たちが工場を運営し、つくっている人、男性なのか?女性なのか?年齢は?場所は?国は?どんな食べ物を食べている?これらの情報を全てお客さんに公開し、途上国の職人さんの生活が少しずつでも豊かになっていく。これをブルーシンシアが中国から途上国に移すことによって、今は大きなインパクトにはならないが数年後大きくしていく。そんな覚悟で途上国の中でレザー製品が強い国をリサーチし、バングラデシュという国に工場を立ち上げた理由です。

工場の立ち上げは、2022年9月〜なので、まだまだ工場運営は始まったばかりですが、2024年2月時点で現地の職人さんは約400名います。
少しずつですが、日本のお客さんにもBLUE SINCERE(ブルーシンシア)の活動を知ってもらえるようになってきました。
途上国であるバングラデシュの職人さん、日本や世界のお客さん、ブルーシンシアスタッフ。みんなの喜びや幸せのBLUE SINCEREの輪が少しずつ広がっていっています。
まだまだ道なかばですが、少しずつですが着実に変わっていっているのを実感している今日この頃です。
魅力的なプロダクトを通して、バングラデシュの国や人を知ってもらい、決して高級ではないですが、こだわりのあるプロダクトを長く愛してもらえるようなブランドづくりに日々熱中しています!

長くなりましたが、以上で自己紹介としての投稿を終わりたいと思います。
最後まで読んでいただきまして、ありがとうございました!



PS
そんなよくある、自分自身が貧乏でお金持ちになりたいという単純な理由での会社設立でしたが、少しずつですがお客さん、職人さん、地球のことを真剣に考え、本気で変えたいと思えるようになれました。
そして、モノを購入し所持することやお金持ちになることが幸せにイコールで直結することではないということは、周りの仲間や経営者を見ていて心から実感していました。
お金があっても常にお金を失う恐怖と戦っている方、次から次へと物欲が流れ出てきて満足できない方、お金で人の気持ちを買って刹那的に刺激を得ている方…
人それぞれ幸せの価値観はあるとは思いますが…

私自身は、食事は何を食べても基本美味しいです。(貧乏生活で体得した舌でしょうか)
28歳から4年ほど1日1食生活をおくっていました(今は、制限を緩くして1日2食くらい)
お酒は自宅では飲まなく、会食時に嗜む程度です。
服のコーディネートを考えるのが嫌なので、黒の服をいつも着ています。
こんな感じで、鬱病を救ってくれたHUMMER にはいまだに乗れてないですが、いつか乗りたいな〜♪

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