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たばこの価値:無用と必要のあいだ

24歳から26歳の間、JTというたばこ会社に勤めた。そして、2018年夏、働く場所を変えた。何を残せて、何を学んだのか。未熟な自分を育ててくれた場所、商材とは何だったのか。人生の棚卸しとして、今回は「たばこの価値」を題材に考えてみたい。

喫煙者でもない自分が、なぜたばこ会社を選んだのか

就活は大いに悩んだ。留年により二回就活をした。家族、教師、講師に育ててもらった自分。そして、受験講師、キャリア支援として、誰かの人生を応援する自分。元より興味があるのは、人を育てる仕事。やりたいという思いと、実がない自分とのギャップがあった。人間の器を広げるため、見識を広げるため、あえて自分の違和感がある場所で生きてみよう。いつかの自分のためになるはず。そういう大きな方向性はあった。

なぜ仕事をするのか。自分にとっての答えはシンプルだ。誰かの幸せを作るため。その幸せは、どういう色をしているのか。それはどの程度のボリュームなのか。姿形は違うが、全ての仕事は人の「時間」を使わせることに収束している。分からないなりに、自分で考え、向き合った。(今も)

自分はたばこを吸うわけではない。香りも別に好きじゃない。かっこ良いとも思わない。おまけに、身体的な健康にとって手放しにポジティブだとは言いにくい。でも、吸っている人が大勢いる。斜陽だと言っても、18%前後の人が喫煙者だ。事実として。身体を作るためでもないのに、嗜好として愛用している人が大勢いる。極めて不思議な商材。

自分が全く興味のないものに、多くの人が惹かれていること。そして、それが生物学上、必要なものではないこと。自分の思い込みと世間の認識とのギャップに面白さを感じた。就職先を決める時の自分は、そこに自分の見識を広げるチャンスがあると考えた。

思えば、たばこ一本は数分で終わるが、年間に数千億本使われるもの。商品が、人生を使わせる時間、そのボリュームは凄く大きい。吸っている人の気持ちはわからないが、その人なりの吸う意味があり、その時間が無数に重なっている。JTがコミュニケーションワードとして出している「人のときを想う」という言葉。当時はそう解釈した。「なんか、いいやん」と。JTで働くことを決めた。


頭で理解すること、腹に落とすことの違い

入社して2年半。ずっとたばこの仕事をしていたわけではなく、しっかり携わったのは後半の8ヶ月。印象深いのは、加熱式たばこの旗艦店ー全国に10店舗を超えるーのビジョン策定の仕事。

学生時代のNPOの経験からビジョンが組織に与えるモメンタムの重要性は身に染みていた。理想的な組織は、ビジョンのために働き、ビジョンを実現する基準で今を生きる。その中で、個人の生きたい人生を実現していく。青臭いけど、自分にとっての仕事はそういうものだ。人がわざわざ集まって組織になる。組織には存在する目的がある。その目的を実現する絵として表現されたビジョン。組織にも、自分にもビジョンが何より重要だと考えていた。(今も)

ビジョンはただの言葉ではない。目指す未来が実現した時の絵だ。情景が見えて、心が踊り、日々の行動が変わるものが理想だと思う。その中で、迎えたビジョン策定の仕事。2,3か月かけて、社員だけではなく、代理店やアルバイトの方々とも多く対話をした。トップダウンで決めるというより、そこにいる人たちの想いを紡ぎ、言葉にしたかった。

結果として、ビジョンはできた。けど、自分の心を動かすことはできなかった。この場所がどういう未来を作るのか。それが社会にとってどういう意味を持つのか。頭で考えた綺麗な言葉で語ることはできても、腹に落ちてくることがない。不思議な感覚だった。自分で言葉を出しているのに、自分で全然納得していない感覚。

迷った。自分が肚から納得していない「それ」を働いてくれているメンバーの方々に伝えていかなければならない。熱を込めて。数十人の前で発表する機会もあった。話す言葉と内心とのギャップ、現実は前に進んでいくが、心が全く追いついていない感じ。

この感覚は以前にも経験したことがあった。自分を騙している感覚。これは危険だ。身体がそう言っていた。

おれはたばこを売って人生を過ごしたいわけじゃない。

仕事の内容、仲間、条件などは申し分なく、今でもJTのことは大好きだ。ただ、この空虚さは見過ごすことができなかった。今回は無視しないのとにした。自分にとって、働く意味を自分に語れないことほど辛いことはない。商材が商材なだけに、異動したからといって解決する問題ではなかった。構造的な問題だと捉え、たばこの仕事を辞めた。2018年の夏。

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改めて、たばこの価値とは**

皮肉なもので転職を決めてからたばこの価値をほんとうの意味で感じる経験があった。前文が長くなったが、ここからが本題。一つはプロポーズ、一つは五島列島に旅行に行った時のこと。

8月6日。約一年半付き合った女性にプロポーズをした。プロポーズの場所に選んだのはセブ島。旅立つ2日前、東京に来てずっと通ってる美容師さんに、髪を切ってもらった。そのまま彼と麻布十番のバーに行った。恐ろしくうまい(表現が思いつかない)ウイスキーとそれに合う「アルカポネ」という葉巻をもらった。そのマリアージュがすごくて、もらった「アルカポネ」をスーツケースに忍ばせてセブ島に向かった。


プロポーズの中身は省くが、プロポーズ後、今まで経験したことのない感情が生まれた。言葉では表現できない温かい感情が、自分の中と周りの空間に溢れていた。26年生きてきて、初めての感情。言葉にしようとノートを出したが、どうしても書けない。今でも整理できていないけど、いわゆる「言葉にできない」という体験だった。

言葉にできないなら、心に残そうと思った。じっと、その時の光景を見た。何だか上手くいかない。しかも経験的に、景色のことは次第に忘れてしまう。どんなに感動的な光景でも、記憶には勝てない。しだいに解像度が薄れ、消えていってしまう。さて、どうしよう。

ふと、スーツケースにいれてあった「アルカポネ」のことを思い出した。直感的に、吸ってみようと思った。部屋のテラスからぼーっと自然を眺めながら、吸ってみた。マッチで火をつけた。葉巻の質感に合わせて、ゆっくりとゆっくりと、味わうように。

そのときの一本は今までのどんな一本より価値のあるものだった。言葉にできない感情、五感の情報、目に見える風景、そういう空間全部を閉じ込めてくれるような。大切にしたい時間に伴奏してくれる存在。煙になってでていく「それ」に今の全てが詰まっているような感覚になった。

そのときの一本はただの葉っぱではなかった。人格があり、意思を持っているように感じた。それは、自分にとっては、大げさにいうと「人生に伴奏する」ことだった。

これはたばこにしかできない。直感した。人の心を増幅させる装置。時間に伴奏し、人格と溶け合い、共に在ること。この体験が「人のときを想う」ということか、と。

初めて、たばこの価値が肚に落ちた体験だった。


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五島列島、星空の中の海にて**

今年の春、JTが持つギャラリーで五島列島の写真展を行った。ご縁があり繋がり実現した企画。「五島列島、毎日が絶景プロジェクト」。自分たちが見ている毎日が、気づいていないだけで、本当は絶景だ。五島の土地、五島の人の背中を押す企画。理念に共感し、ぜひギャラリーを使ってくれ、と頼んだ。その時のご縁があり、五島列島に行くことになった。

その時の一幕。海の中の星空。まさに言葉通りの光景だった。偶然会った釣具屋の店長と夕飯後に船に乗り、海の中に星を見に行った。

光一つない真っ暗な海。高い建物もないので、横を見ても遮るものがない。空が繋がっている。上を見ても、横を見ても、空と海の境界線がなくなり、全てが一つの空間のようになっている。その中に浮かぶ一艘の船と自分たち。静寂の中には、無数の星と自分たちしかいなかった。幻想的と言うにはもったいなく、言葉にするにも惜しい体験だった。

時間を閉じ込めたくなった。プロポーズの時を思い出し、船長からたばこを一本もらった。一緒に乗っていた皆ももらって吸っていた。普段たばこをやめていた人も吸っていた。プロポーズの時の感覚が蘇る。

唯一違っているのは、そこに「誰かがいること」。時間を共にし、同じ空気を感じてる仲間と、いつまでもこの時間が続いて欲しいと名残惜しむように、ただ吸っていた。閉じ込めたい時間を共有することもできる。たばこの価値を少し違う角度から、もう一度感じることができた体験だった。

これからの時代の嗜好品

この話は何かの結論を出すためのものでは全くなく、考え続けるために言葉にしたもの。自分が「今」価値を感じていないもの、見て見ぬふりをして流してしまっているもの。そういうものにも価値を見出すことができるし、それが増えれば増えるほど、人生は豊かになる。

高い授業料になったが、2年半を通じて、たばこという商材を通じて、そういう人生の教訓を学ばしていただいた。余白が必要な時代。情報・選択肢が溢れ、それが故に無感動・無思考でも生きられてしまう時代。人間が人間らしくあるために、それを助けたり、伴奏したりする仕組み・道具は絶対に必要だと思う。

今の時代こそ、たばこの価値を再定義し、本当の嗜好品として概念を変えていくタイミング。逆にここを逃すと、もう後がないと思う。陰ながら、応援したい。

人生を豊かに。


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※ 本エントリーは所属する企業とは一切関係なく、一個人の意見として述べているものです。

※「たばこの価値」は情緒的な面での価値のみを指しています。健康に対する影響については、本エントリーの主題ではないので、その点における議論を行う意図はありません。

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コメント5件

コメントありがとうございます。そうですよね。吸わない方にも配慮のある、社会にいい意味で溶け込みやすい、たばこがでてきたらいいな、と私も素直に思います。
シオミ様
興味深く拝読させていただきました。煙草などの嗜好品は、栄養分を含んでいる訳でもなく生きてゆく上で不可欠なものでもありませんが、だからと言って不必要なものだと論じることはできませんよね。『時間を伴奏し、人の心を増幅させる装置』これはまさにピッタリの表現だと膝を打ちました。

嗜好品と言えば煙草の他にもお酒や珈琲などがありますが、いずれも生活に欠かすことのできない甘美な“伴奏”だと思います。そしてその余韻や二次的作用として、ニコチンやアルコール, カフェイン等による致酔作用や覚醒作用が得られます。
しかし時には(伴奏を得る目的ではなく)その二次的作用を得ることが目的となることもあるでしょう。酔うために飲む安酒や、目覚ましのために飲む珈琲、苛立ちを誤魔化すために摂取する煙草等々。こういう場面も少なくはないのでしょうが、やはり多くの人はアルコールの摂取を第一目的とするのではなく、友人らと楽しい時間を過ごすための伴奏としてお酒を酌み交わすのだと思いますし、珈琲の場合も同じく、カフェインの摂取を第一目的とするのではなく、
(続) やはり友人とのコミュニケーションの場や、ふっと一息つきたい時などに添えられるものだと思います。

しかしながら煙草の場合は、場に彩りを添える“伴奏”として用いられることや、香喫味を愉しむことよりも、副作用であるはずのニコチン摂取が目的となり代わっている方を大変多く目にします。大切な時間を過ごすために喫することよりも、日々のストレスを誤魔化すために浪費される煙草の方が圧倒的に多いと思います。その結果、マナーを伴わない喫煙が増え、今日の嫌煙ブームのきっかけとなり、また若年層の煙草離れが進んだのであれば残念でなりません。酒も珈琲も煙草も、いずれも人の心を増幅させる装置にもなれば、摂取しすぎては害毒となります。ただひたすらに忌み嫌うのではなく、JTさんが提案されるように、嗜好品とうまく付き合ってゆける文化的な社会になればいいのになと思います。

私も所謂チェーンスモークはしておらず、なんとなく気の向いた時(数日に1本)しか吸わないライトスモーカーなのですが、今夜は久しぶりに海外より持ち帰った1本の煙草に伴奏を任せ、思案に耽ってみたいと思います。長文にて失礼致しました。
人の心を増幅させる装置というワードは非常に良い表現だと感じました。
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