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平日日記 誰かと住むということ

家族以外の人と同じ家に住むようになって、そろそろ半年が経とうとしている。家族だって他人だけど、家族は、物心つく前の何もできない私と過ごしてきてくれた歴史がある。

そう考えると、今一緒に過ごしているあの人は、たかが5年程度の私しか知らない。意識もしっかりして、他人にこう見られたい、とある程度装うことが出来てから出会った、正真正銘の他人だ。他人だからこそ、大切にできるし、一方で雑に扱ってしまうこともできる。


誰かと一緒に住んだら、家事が半分になって時間が増えると思ったけれど、見当違いだったみたいだ。考えてみれば当たり前のことである。家事の量が単純に増えるのだから、手分けしても、減るわけではない。むしろ増えたような感じがする。ちょっと気を抜くと相手が多くを負担しているし、気を付けすぎると自分が多くを負担してしまう。中途半端に相手の働きを期待してしまうから、「なんで私ばっかり…」などと考えてしまう。なのに、その不満を伝えて、相手が意識をして多く負担し始めると、ソワソワと落ち着かない。

誰かと住むというのは、難しい行為だ。


大学時代の友人が、卒業研究のテーマにカニを選んでいた。毎月小潮から大潮にかけての周期で自動撮影カメラを干潟に設置してカニたちの動きを撮影する。潮の干満差が日本一の有明海なので、カメラを置きっぱなしにはできない。高い機材だし、大事なデータだし、誰かにイタズラされたらたまったものではない、という理由もある。朝カメラを設置して、夕方回収して、そこからデータを取り出し整理する、という地味にしんどいルーチン調査だ。データ整理の方法も聞いたが、とにかく気の遠くなる作業だった。データはたくさん取れば取るほどよい、と思っていたが、当事者としてはたまったものではない。

私も彼女と同様に干潟をフィールドとした研究を行なっていたので、何度か調査中の話し相手として同行した。ちなみに、私は干潟の植物たちを研究していた。塩分の高い土に、文句も言わぬ静謐な研究対象だ。かじると、少ししょっぱい。

カニたちはおおよそ、周りのカニと適度な距離を保って過ごしていた。たしかに足元を見ると、巣穴の大きさは大小あるが、それぞれその穴の大きさに応じて、周りの巣穴と距離をとっている。大きな巣穴の周りだと、少し間を置いた位置に他の巣穴がある。比較的小さな巣穴は、どちらかというと整然と並んで見える。友人と二人でなるほどなあと言い、夕陽を眺めた。


カニだって自分一人の空間を保持して暮らしているのに、赤の他人と住まいを同一にするなんて、おかしいように思う。あれこれ考えすぎてしまうほど頭でっかちに進化した生物のくせに、気を遣いすぎたり、期待しすぎたりするくせに、思い通りにならない相手と同じ部屋に帰ってこようとするなんて。


中途半端に洗ってあった皿を洗い直しながら、ため息をついていたら、申し訳なさそうにそばに寄ってきて、布巾で皿を拭きあげてくれた。

そのさがりきった眉毛を見ると、何だか憎めず、だから私はこの人と一緒に住んでいるのだろうなあと思う。

そういえば、一人暮らしの時だって、昨日の自分のやり残した家事に腹を立てたりしていたものだ。

生活の中で疲れを感じるのは当たり前であり、疲れ切った時は、有明海のカニたちを見習って、一人の巣穴にこもろう。


2021.11.11 小鹿かの子


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