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試し読み:『デザインはストーリーテリング』 解説:須永剛司

ひとつ前の記事で、本書の序文を公開しましたが、同じく本書に所収されている須永剛司先生による解説文もここに公開いたします。

須永先生といえば、2018年10月に催された東京藝術大学での退任展「情報のかたち 社会のかたち」が記憶に新しいですが、「情報デザイン」という領域を先導し、その表現、省察、共感、そして共同体のデザインへと実践/探究を深めてきた須永先生ならではの解説となっております。

ぜひご一読ください。[岩井]


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すばらしい本だ。デザインの問いを「もの」から「こと」へ広げる、さまざまなガイドが提示されている。読むと、いまデザイナーたちが必要としている「表現」がなんであるかわかる。そしてデザインがかかえる今日の課題もわかる。
 さらに、デザインを専門としない人にもデザインの面白さがわかる。もしあなたがその「表現」を気に入れば、自分でそれをやってみるといい。そのためのヒントが本書にたくさんある。日々の生活や仕事のなかでその表現を使ってみると、デザインの本質に触れることができるはずだ。それは、全体と部分を表現しながら往復することが対象のあり方と成り立ちを創成する、デザイン知である。そこでは表現することからなにかが生まれてくることを実感し、表現している対象が好きになるという不思議な体験をするにちがいない。
 本書の主題である「ストーリーテリング」とは物語ることである。それは私たち人類が、その数万年の歴史のなかで繰り返してきたコミュニケーションの方法である。そして表現の型でもある。物語ることによって、家族や共同体、そしてこの社会はつくられてきたと言ってもいいだろう。物語ることは私たちがよく知っているやり方だ。映画を楽しんだり友達の旅の話を聴くとき物語りに出会い、自分もいろんな機会に物語ることをしている。しかし残念ながら、専門と呼ばれる多くの仕事では、「説明する」ことが重要視されるあまり「物語る」ことが忘れられてきた。物語ることは主観的であり曖昧さをともなっているからだ。
 この社会の営みは複雑で、不確実で、不安定で、独自で、価値葛藤という状況を抱えている。そういう社会をかたちづくる仕事に「物語る」方法を取り戻し、家族や共同体や社会のような対象の全体をデザインする力を手にいれるのが本書のねらいだ。その意味で、本書は「物語ること」という人類がもっているやり方を改めて見直し、その力に改めて気づく機会を私たちに与えてくれる。本書を読むことはそんな壮大な試みに参加することと言えるかもしれない。
 著者エレン・ラプトンは、米国ニューヨークにあるクーパーヒューイットというデザインミュージアムの学芸員である。このミュージアムはすぐれたデザイン産物とデザイン知の歴史的なコレクションだけでなく、幼児から高齢者までさまざまな市民に「デザイン」を体験するプログラムを提供している。彼女はバルチモアにあるメリーランド芸術大学のグラフィックデザインプログラムのディレクターもやっている。この本に凝縮されているのは、ミュージアムのプログラムづくりやデザインの学びをつくるなかで彼女が見出したデザインのエッセンスなのだと思う。


この本の議論をうまくつかむために2つの重要な観点を示しておこう。1つは、著者が「英語の「design」は名詞であり「デザインする」という動詞でもあるのです(p.21)」と述べるように、本書で述べるデザインは「動詞のデザイン」であるという観点だ。したがって本書のタイトル「デザインはストーリーテリング」の意味は、「デザインすることは物語ることだ」となる。
 「デザイン」を名詞として使うのは、デザインされた結果に現れる特性を示すときである。例えば誰かが「このカップのデザインを気に入ったよ」と言うとき、それはそのカップの「造形や絵柄あるいは素材など」が気に入ったという意味となる。このデザインは名詞である。
 もう1つは、著者がデザインする対象を「プロジェクト」とする観点である。プロダクトやコンテンツやサービスなどのいわゆる人工物と、それらを利活用する人々が起こすことと経験することを合わせた全体がプロジェクトである。
 著者の言うプロジェクトの意味は、「幕引きの後で」の章の「ストーリーテリング・チェックリスト」の次の言葉群からわかる。「ユーザはどのようにあなたのプロジェクトに参加しますか……、ユーザはあなたのプロジェクトを利用することで……、あなたのプロジェクトにはどんな個性がありますか……、あなたのプロジェクトは観客にどんな視覚体験の旅を提供しますか……」。これらの言葉の中の「プロジェクト」を「デザイン成果物」や「作品」と読み変えてみると、それらは馴染んだ言い回しとなってわかりやすい。しかし、著者はそれを「プロジェクト」と呼んでいる。ここに、著者の観点が従来のデザインを語るのとは異なるところに立脚していることがわかる。これらは本書を読む上でとても大事な前提理解となる。
 では、デザイナーがデザインする対象としてのプロジェクトとはなんだろう。本書のなかではいくつものプロジェクトが紹介されているが、著者はこれらをデザインされるひとつの実体ととらえてはいない。そうではなくデザインすべきは、制作される物事とそれを受け取る人々の活動、そこに起きる活動と人々が手にする体験、それらすべてを包含した事象であり、それをプロジェクトと考えるのである。
 この解説文を書いている私は残念ながらラプトン女史と面識はない。しかし、2012年までクーパーヒューイットデザインミュージアムのディレクターを務めた故ビル・モグリッジ氏は私の大事な友人である。ビルとこの文を介して著者とつながれることをとても誇りに思っている。


これまで私は情報にかたちを与えるデザインの領域を開拓してきた。その後、かたちを与える情報のはたらきのコンテキストをもデザインすることの重要さに気づき、現在、新たなデザイン領域を育てている。人々のコミュニケーション活動の可能性をデザインすることと、自分たち住みたい社会をかたちづくっている人々と共同するデザインである。この拡張のなかで「ストーリーテリング」という方法の可能性を私も確信している。
 そこで「物語ることが重要なのはなぜか」についての私の解釈を示しておきたい。なぜ「ストーリーテリング」がデザインの方法として重要なのだろう。その答えは、デザインする対象がプロダクト(もの)からサービス(こと)へ拡張したからである。
 私たちは「もの」の姿を描写できる。そこに物体として存在するからだ。「こと」も確かにそこに存在する。しかし、「こと」の姿を物のように描写することは難しい。なぜなら「こと」は時間の中に生じる現象だからである。そこに始まり、なにかが起こり、終わっていく営みはスナップショットとして描くことができても、「こと」全体を絵のように描写することは難しい。
 デザインする対象をプロジェクトととらえることで、そこに、生み出される人工物のみならず、それらを利活用する人々が起こす活動や経験を含む全体がひとまとまりの事象として描き出されることが不可欠となる。つまり、「こと」にかたちを与えることがデザインの中心的な課題となったのである。そこに「ストリーテリング(物語る)」という表現の重要な役割が見出されているのだ。
 「物語ること」の本質を考えるために、日本語の「もの」と「こと」の存在論的なちがいについての議論を知ることは重要である。精神科医の木村敏はその著者『時間と自己』のなかで、「木から落ちるリンゴ」と「リンゴが木から落ちる」という2つの言い方を比較し、前者は「もの」の命題で後者は「こと」の命題であることを指摘している。

「もの」の命題は名詞的な言い方で、それを見ている人は、自分がそこに立ち会っているという事実を消去している。自分以外のだれが見ても「木から落ちるリンゴ」は「木から落ちるリンゴ」なのであって、それを見ている人の主観にはなんの関係もなく、その人から何メートルか前方にある定位可能な客観的な「もの」なのである……これに対して、「リンゴが木から落ちる」のほうは、木から落ちるリンゴと、それを見て「リンゴが木から落ちる」ということを経験している主観なり自己なりというものがなかったならば、叙述されえない。リンゴは向こう側、客観の側にある「もの」であるけれども、それが落ちるという経験はいわばこちら側、主観の側にある。あるいは、こう言ってよければ客観と主観とのあいだにある。(*1)

 物語るという方法は、木村の述べる「こと」の命題を立てることだと考えることができる。その意味は、それを経験する人(自己)の主観としてプロジェクトを表現し、さらに客観と主観とのあいだに生まれる事象としてそれを表現する試みである。それはこの社会が抱える状況を、名詞として客体化し安定させてしまうのではなく、相互作用し変化する事象、自分もその中にいる出来事として表現することを可能にする方法なのである。
 「プロジェクト」は、きっと文化的な実践として、これまでもこれからも社会に存在する出来事としてデザインされ創生されていくにちがいない。実践はデザイナーがまったく新たにつくり出すことではなく、人々が突然に始めることでもない。学ぶことの学を提唱する佐伯が言うように、人々が生活する現場には、より善く生きるために継承し、創成し、発展し、変容しつつある人々の集合的な営みとしての文化的実践がある(*2)。デザイナーがそうした文化的実践を敬意をもって受け入れ、その発展に参画し貢献するためのプロジェクトのひとつの方法として「物語ることの力」を学ぶことは、とても大事なことだと思う。


*1 木村敏『時間と自己』中公新書674、中央公論社、1982年
*2 佐伯胖『幼児教育へのいざない:円熟した保育者になるために』東京大学出版会、2001年


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