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試し読み:『スペキュラティヴ・デザイン』 日本語版序文

2015年11月に刊行した書籍『スペキュラティヴ・デザイン』をご紹介します。着々と売れ続け、このたび重版4刷の運びとなりました。

本書の冒頭に示されているのは、著者のダン&レイビーによる以下の表です。ご覧になったことのある方も多いのではないでしょうか。

何かひとこと言いたくなる、まさに議論を呼び起こす構図となっていますが、続くテキスト「はじめに」の冒頭において、ダン&レイビーは以下のように語ります。

本書のきっかけは、私たちが数年前に作成した「A/B」というリストだ。これは、一種のマニフェストだ。このリストは、ふつう理解されているところのデザインと、私たちが実践しているタイプのデザインを併記したものだ。といっても、BでAを置き換えよう、などという意図はいっさいなく、ただデザインに新しい次元、つまり比較の対象となり議論を促す要素を付け加えたかっただけなのだ。できれば、C、D、E……と続いていくのが理想だ。

“できれば、C、D、E……と続いていくのが理想だ”。

本書の原書の刊行は2013年でした。今は2019年。C、D、E……を、探求していきたいですね。

さて、以下は監修者の久保田晃弘さんに寄せていただいた日本語版序文です。ぜひ読んでみてください。[村田]

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日本語版序文
スペキュラティヴ・デザインの今日的意義

「Speculative」ということばを日本語に訳すのは難しい。辞書的にいえば、本書で用いた「思索的」あるいは「推測的」、哲学的には「思弁的」、経済的には「投機的」といったいくつかの訳語があるが、それをたとえば「デザイン」の前に置こうとすると、なかなかうまくフィットしてくれない。「思索的」のほかにも、近い意味のことばとしては「Alternative〈もうひとつの、別の〉」や後述の「Critical 〈批評的〉」などがあるが、それらが「思索的」以上に「この1語で大丈夫」という訳でもない。それはおそらく、英語と日本語の意味の違いや翻訳の問題ではなく、ダン&レイビーの2人が「Speculative」ということばに、さまざまな意味を込めて使っているからだろう。「Speculativeとは◯◯である」と辞書的、あるいは内延的に定義するのではなく、「◯◯もSpeculativeである」とむしろ外延的にひとつひとつ事例をあげて説明していくべきものなのかもしれない。少なくとも、この本はそういう形式で書かれている。「Speculative」ということばは象徴的であると同時に、多義的でもある。

そのことが具体的に示されているのが、本書の出発点となっているダン&レイビーの「A/B」宣言である。本書でいうところの「Speculative」の意味はこのカテゴリー「B」の総体に集約されている。つまり「Speculative」とは『批評的で議論を呼び起こすことを通じて、問題を発見し、問いを立てる。デザインを社会サービスにおけるメディアとして捉える。世界がどうなり得るのかを示すことで、その世界に自らを適合させていく。それは社会的に機能するフィクションであり、実現していない現実としてのもうひとつの平行世界でもある。何かを作る側ではなく、消費する側からの視点を暗示し、人をユーモアと共に挑発する。まさにコンセプチュアルなデザインであり、市民としての私たちに、倫理や権利について考えさせる力を持った表現である』ということになるだろうか。「Speculative」という語はもはやひとつの単語ではなく、こうした意味をすべて指し示すものとしての、いわば集合的インデックスであるということもできるだろう。そこで本書では「Speculative Design」を訳すことなく、あえてそのまま「スペキュラティヴ・デザイン」と記すこととした。

本書を通じて感じられるのは、ダン&レイビーの二人が基本的に、デザインの社会的な役割や意義を信じている、ということだ。科学者や芸術家など異分野との共同作業も含む彼らのやり方は、伝統的な(肯定的)デザイナーからは「わからない」だとか「役に立たない」といわれたこともあった。しかし彼らは、経済的な成果をあげるための商業的デザインと、それを強化するデザイン思考のような、多くの人がこれこそデザインだと思っていたものをそのまま引き継ぐのではなく、むしろそれらを批判的に再考しながら、既存のデザインを「Speculative」に逸脱していこうとする。デザインの力を信じているからこそ、デザインはデザイン自らの力で、デザインという概念そのものを変えていったり、拡げていくことができる。

かつて工学系におけるデザイン(設計)は、明示された評価関数を最大化、あるいは最小化するように製品の仕様を極める「最適化」と同義であった。一方で、美術系におけるデザインは、最終的な製品の色やかたち(これも広義の仕様ではあるが)を決めることであり、「意匠」と同義であった。その後コンピュータの登場により、情報や計算と認知や身体を結びつける「インターフェイス」という概念と、そこから「人間が中心」そして「使いやすさは善」というドグマ(教義)が生まれた。それは一見、人を技術の上に置く人間讃歌のようにも聞こえたが、結局のところコンピュータという未知の計算機械に対するある種の恐怖心の反映であり、やがて社会の流行やポピュリズムと同化していった。その結果も、一般的な既存の人間(なるものが存在する)という幻想に囚われた、あるいはその幻想を大衆に押し付けようとする隠れた力に導かれた、慣習や制約によるデザインへと堕ちていった。商業的価値に根ざしたデザイン、すなわちAppleやGoogleのように、大量の資金と人材をディテールに投入することで価値を生み出し続けようとする、今日主流の肯定的デザインに果たして未来はあるのだろうか、と多くの人が感じ始めたまさにその頃、デザインを強大な市場の力から解放する、この「スペキュラティヴ・デザイン〈思索的デザイン〉」という大胆な試みが、大学から社会に発信され顕在化し始めた。

デザインは反復することによって、少しずつ上達していくエンターテインメントやスポーツではなく、不断に変化し続ける「思想」である。思想を表現する方法は、文章や映像に限らない。ダン&レイビーはそこにあえてプロダクト・デザインの手法をはめていくことで、彼らが考えるデザインの本質的な思想を浮き彫りにしようとする。といっても、彼らがつくるのはプロダクトではなく、プロップである。本書ではこのProp(s)を「小道具」と訳しているが、この言葉には「支柱」という意味もある。プロップはまさに、それを見た人(実際に使用する訳ではないので、彼らはプロップのUserではなくViewerという言い方をしている)を非現実の世界へと羽ばたかせるための、支えであるともいえるだろう。ハリウッドの映画のように、膨大な世界観を記述する大作を作るのではなく、詩や俳句/ 短歌のように、一部を示すことで全体を(想像力によって)創発していくようなプロップをデザインすることは、決して「わかりやすい」ことでも「使いやすい」ものでもないが、人間の知恵や知識、想像力や飛躍力を信じた、本当の意味での「人間のための」デザインといってもいいかもしれない。人間の知識や知恵は、時には人間を守り生き延びさせてくれるものであるが、それと同時に人間を更新し、未知の世界へと導いてくれるものでもある。

本書でも繰り返し述べられているように、スペキュラティヴ・デザインとその関連領域には長い歴史があり、第2章の冒頭に示されているように、関連するアプローチや呼び名もたくさんある。近年スペキュラティヴ・デザインと並んで話題になっている、作家のブルース・スターリングがいうところの「デザイン・フィクション」はその代表例である。デザインの歴史を振り返って見れば、ドローグ・デザインやデザイン・アカデミー・アイントホーフェンといった、90年代以降にオランダから広がったダッチ・デザイン、コンセプチュアル・デザインとの関連を感じた人も少なくはないだろう。それらは共に、プロダクト・デザインを背景としているだけでなく、前述のカテゴリー「B」の中には「コンセプチュアル・デザイン」というキーワードも含まれている。本書でも述べられているように、コンセプチュアル・デザインのポイントは、それが作品の色や形といった造形ではなく、新たな意味の提示に主眼を置いたことにある。意味に主眼を置くということは、言語的な思考にもとづく概念操作、つまり言語的機能をデザインの核心とすることであり、それが「Conceptual 〈概念的〉」なデザインと呼ばれる所以である。

そうした歴史を踏まえてみれば スペキュラティヴ・デザイン とは、たとえばドローグ・デザインのモットーである「a different perspective on design〈 デザインに対するさまざまな視点〉」、つまりデザインの既成概念を変えていくというコンセプチュアル・デザインに、市場や広告、大量生産に根ざした商業的文化に対する批評的な姿勢を加えることで、具体的な(社会的な、政治的な、あるいは倫理的な)方向性を与えるものといえるかもしれない。ダン&レイビーのデザインが、ドローグ・デザインのように素材や造形に主張させるのではなく、むしろオリジナリティーを消していくことで逆に意味を浮き上がらせるというアプローチをとるのも、こうした歴史的経緯を踏まえてみれば、ある種必然的であるといえる。

さて、改めてデザインのAとBを分けるものは何かということを考えてみると、そこからもうひとつ「Experimental 〈実験的〉」ということばが浮かび上がってくる。実験とは「やってみるまではうまくいくかどうかわからないこと」の総称である。そこでは失敗も有益であり(というよりもむしろ、成功か失敗かということよりも大切なものがある)「Failure is always an option〈失敗は常に選択肢のひとつ〉」である。カテゴリー「A」の肯定的デザインは、うまくいくこと自体が目的であり「Failure is not an option〈失敗という選択はない〉」である。しかし実際には、成功例を模倣することが失敗の始まりである。失敗は確かに危険であるが、危険を伴うリアリティーと成功を夢見るファンタジーの狭間にこそ、多くの選択肢と可能性がある。肯定的デザインを支えるわかりやすいモットーと大作を作ろうとする欲望は市場というドグマへと堕ちやすく、それはいつしか現実に縛られた保守となる。規範と目標が明示された極論ではなく、多くの価値観や選択肢がある中庸の中にこそ多様性があり、可能性がある。見知らぬものを見慣れたものにするカテゴリー「A」ではなく、見慣れたものを見知らぬものへと変えていくカテゴリー「B」にこそ、(世間で良く使われている意味ではない)本当のイノベーションがある。本書を読んだ後には、多くの人がこのことを実感できることだろう。

本書執筆後の2015年、ダン&レイビーはこの10年来「スペキュラティヴ・デザイン」を学生たちと実践してきた、RCA〈英国王立美術大学〉のデザイン・インタラクション学科を離れ、新たな道を歩み始めた。10年といえば人生における一つの節目でもあり、それを目前に(原著の出版は2013年)彼らの成果をまとめた本書が出版されたことは、彼らがRCAを離れたこととあながち無関係とはいえないだろう。しかし本書は、彼らの成果をこれからのデザインの規範としたり、継承していくことを目的としてはいない。まとめるということは、成果を過去のものとすることであり、そこからさらに先に進んで行くための出発点を築くことだ。読者のみなさんも(僕がそうであったように)本書からたくさんのことを学び、考えさせられることだろう。だからといって、ダン&レイビーのやり方をそのまま模倣したり、それをわかりやすく説明したりしようとしてはいけない。未来は常に、現在を問い直し、乗り越えていくためにある。それはスペキュラティヴ・デザインについても、もちろん当てはまる。本書の出版によって、今後はスペキュラティヴ・デザインを「Speculate」し、更新していく時代に入ったのだ。

―2015年10月22日 人生初のサンティアゴ(チリ)から成田へ向かう飛行機の中で

追記:
2014年12月13日に京都工芸繊維大学のKYOTO Design Lab(D-Lab)で行われたアンソニー・ダンの講義記録をYoutubeで視聴することができる(日本語字幕つき)。本からだけでは伝わりにくい彼の豊かな人柄を、この講演記録から垣間見ることができる。タイトルの「Not Now,Not Here」も、やたら「今、ここ」といいたがる昨今の日本の状況に対する静かな批判に聞こえてくる。
https://www.youtube.com/watch?v=chBiMec7KtM

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