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本音と建前とその間


 この世界にはありとあらゆる「建前」が存在している。パチンコでやりとりしているのは現金ではないし、ソープランドでは客とキャストが偶然恋に落ちる。ギャンブル依存症について重く受け止めると言いつつ、競艇は年間5万レースほど開催されている。
 本音を言ってしまえば、パチンコは「国のためにめっちゃ稼いでくれるギャンブル!」だし、ソープランドは「許可売春!」だし、公営ギャンブルは「どんどんハマってください! 困ったら消費者金融ね!」になる。大半の人が分かっている本音でも、けっして運営側は言わない。くだらないなと思いつつ、そんな社会を生きている。

 すべてが本音になった世界を考えてみる。そこは生きやすいだろうか。恋人と別れたと嘆く人に向かって「だから何なんだよ」と言い放ち、上司に向かって「お前と飲みに行く暇があったら家でまいまろの謝罪動画観てる方がまだマシ」と吐き捨てる。パチンコの換金所は消えて、ソープ嬢は街中で客引きをする。ボートレースのCMは蛭子にやらせてみよう。それで生きやすくなるのだろうか。
 あまりそうは思えない。普段バカにしている建前でも、どうやら平和に生きるためには必要みたいだ。なるほど上手くできている。本音は隠しつつ、これからも建前を多用していこう。これが円滑な社会のためになる。

 ひとまずそう腹落ちさせたが、一方で「本音を求められる関係性」も我々にはある。建前ばかりの友人関係は気持ち悪い。一度隠したはずの本音を適切に取り出すことも求められるわけだ。
 ここで問題が生じる。建前ばかり使っていると、自分の本音が分からなくなってくるのだ。そもそも本音というものが存在しないケースもある。そんなときに本音を求められたら、とれる手段はひとつである。本音っぽいものを作り上げる。
 
恋人と別れたらしい友人に、それは残念だったねと声をかけ、まぁゆっくり一人で考えてみるのもいいんじゃないのと慰めて、それが本音に聞こえるように気を遣う。あまりにも機械的な返答だと建前然としてしまうので、なるべくそこにオリジナリティを加える。
 建前と本音の中間に存在する、そのファジーな領域に名前はない。しかし、よく思い返してみると、どうやらそこにカテゴライズされそうな発言で溢れている。少なからず相手に好かれたいと考えて、建前臭さを削り取った「本音らしきもの」は、もしかしたらこの世で最も多用されているのではないか。

 社会や人間関係を円滑に動かすためには、建前と「本音らしきもの」があれば事足りる。それらを駆使して日々を送っていると、自分の内面というものがよく分からなくなってきて、不安感に苛まれる。
 どれだけ正直に語っているつもりでも、それは「見せたい自分」という呪縛から逃れられない。どんなに信頼している人にだってそうだ。いや、最も信頼できる自分自身でさえ、その心の中すべてにアクセスする権限は持っていない。一部にその都度接続しながら、この世界に向けて「内面らしきもの」を報告し続ける、スポークスマンのような自分がいる。
 そう考えると、建前というのは案外誠実なのかもしれない。だいたいバレバレだし、馬鹿げているし、ときおり居心地が悪いけれど、本音らしきもののカオスに比べたら、幾分マシに思えてくる。


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