見出し画像

不安定


 競艇は自分にとってギャンブルではない。投資だとか仕事だとか言いたいわけではなく、ギャンブルに内在する「興奮要素」が著しく欠けてきたという話だ。当たっても外れても関心が持てない。それはもうギャンブルとは呼べないだろう。
 一方で、たまにする競馬やスポーツベット、あるいは麻雀などは、まだギャンブルとしての香りを残してくれていて、レースや試合を見る瞬間、ここぞというときの聴牌などには、心が躍ってくれる。私はギャンブルが好きだ。

 いったい、この魅力の正体は何なのだろう。小心者なので、生活を懸けた大勝負などはできない。上下数万円、翌日には忘れているくらいの博奕である。麻雀でこっぴどく負けた日の帰り道、傷心と呼ぶにはちっぽけすぎる気持ちを抱えながら、詩にもならない夜空を見上げて考える。
 賭博という行為の原型は遥か昔から存在している。あらゆる趣味事の中で最も古いのがギャンブルだ。遺伝的に刻まれている何かが、令和日本の取るに足らないホモサピエンスの賭博衝動に寄与している。そんな無機質な帰結ではつまらない。

 以前こんなツイートをした。これは競馬や麻雀に興じているときの自分自身が、実感として持っているものである。生活や人間関係を犠牲にしていないだけで、私も立派なギャンブル依存症だ。少し脇道に逸れるが、アディクションとは「ある特定の物質や行動、人間関係を特に好む性向」のことであり、それそのものは問題ではない。人は何かに依存して生きている。
 で、ギャンブルのどこに依存しているかと考えたときに、思い至ったのがその「不安定性」だ。前述したように、私は欲しいものを賭けて遊んでいるわけではない。上下数万円は、言うまでもなく人生を左右するほどの金額ではないだろう。それでも楽しく、心躍り、歯を食いしばることができるのは、ギャンブルに興じているその瞬間、あらゆるものが「不安定」だからだと思う。

 金銭とは時間である。時間とは命だ。つまりギャンブルは「時間=命」を不安定な状態に置く行為だと言える。
 時給1,000円だった学生時代は、可処分所得に限りがあった。1時間で上下3,000円のギャンブルは、時給の3倍である。あまりに不安定だ。1時間の娯楽で3時間の労働が吹っ飛ぶし、その逆の僥倖もある。結局均されて、1時間あたり数百円ずつ損をしていることに「いつか気づく」のだが、そんな事実に興味は持てない。トータルでどうかより、その瞬間が不安定かどうかに関心があるのだ。
 なぜこうも「不安定」を欲するのだろう。それは、普段の生活が安定しているからに他ならない。嫌な喩えになるが、自国が戦争をしているときに賭場を訪れる気になるだろうか。たしかに我々の未来は不確実だが、明日どうなっているかは実のところ確信しながら生きている。でなければ冷凍庫に白米を入れたりしていない。明日も想定通りの日常があって、一週間後にデートの予定があって、秋ごろには旅行に行こうと計画している。確定拠出年金について調べたり、県民共済や生命保険にとりあえず加入したりなんかして、安定した日々を志向している。
 志向していながら、それでは退屈だと感じてしまう。不幸なわけではない。娯楽のひとつとしてギャンブルという選択肢が持てるほどに安定しているのだから、口が裂けてもそんなことは言えない。しかしこのどうしようもない退屈が、私を一時的な不安定状態、すなわち博奕へと向かわせる。

 文明は、いつ死ぬかも分からない不安定な状況を乗り越えて、平和な日々を実現させた。あらゆるギミックが「安定」に向けて稼働している。一見すると不安定な投資行動も、適切なリスクをとった方がむしろ長期的に安定するという考えのもとで推奨されている。誰もが平和を望んでいる。ありきたりな日常に感謝している。明日が当たり前に訪れると信じて生きている。
 だからギャンブルは面白い。世界が手に入れた、そして手に入れつつある「安定」から、大きく距離をとったシニカルさを、私は手放すことができないだろう。気軽に「不安定」を楽しめるのは、それこそが平和であることの証左であり、紛うことなき幸運なのだから。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?