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Bye Bye My Gamble


 その客はいつも深夜1時にやってきた。繁華街の奥にある雀荘は、得てして空気が陰鬱としていて、その傾向は深夜にピークを迎える。浅い時間から打ち続けているプレイヤーの目と財布が死んできた頃、その客はとどめを刺しに訪れる。
 気の狂ったレートの雀荘だった。1時間で運が悪いと20万(架空の通貨です)くらい負ける。その店で私は裏メンをしていた。裏メンとは「客のフリをして麻雀を打つ人間」のことだ。自分の財布で打ちながら、店からは従業員よりも低い額の給料をもらう。その代わり、雑務は一切しなくてよい。
 なぜそんな形式が採用されているかというと、これにはいろいろなワケがあるのだが、一番の理由としては「従業員と打つのを嫌がる客がいる」ことが挙げられる。見た目はただの常連なので、私と打つのを嫌がる客はいない。しかし、彼だけは違った。

 深夜1時の客は、いつもスーツ姿だった。狂ったレートと立地のせいで、この店にまともな客はほとんど来ない。だからスーツはかなり浮く。彼は自分で銀行員だと言っていた。誰もその話を信用していなかったが、面白がって「行員さん」と呼ばれていた。
 行員さんは利発な打ち手だった。いつも冷静で、盤面をよく観察していた。クズ手でも序盤からシビアな鳴きを入れて、周りが対応するのを眺めながら悠々とオリるような狡猾さもあった。
 レートの高さと実力は比例しない。高額を賭けているからといって、弱い客は相当に弱い。だから負けないのは容易かった。しかし行員さんが来ると少し事情が違ってくる。笑顔で点棒とチップをやりとりしながらも、お互い腹の中ではこう感じていたのだ。

 こいつとだけは打ちたくない。

 麻雀はカモに効率よく金を吐き出させるゲームだ。公営ギャンブルと同じで、毎回必ず「場代」をとられるから、誰かが大量に吐き出してくれないと勝ち切るのは難しい。そしてそれを二人で分けるなんていう芸当は不可能に近い。行員さんとの痛み分けになるくらいなら、別卓で打つ方が効率がいいのだ。
 しかし場末の高レート雀荘の深夜である。2卓立つことは稀だ。渋々対局しながら、この無意味な時間は何なのだろうと、やるせない気持ちで朝を迎える毎日だった。
 その行員さんが、ある日を境にパタリと来なくなった。常連たちは「どこかに出向したのか」などと言いながら笑っていた。これで安寧の日々が過ごせると胸を撫でおろしたが、不思議なもので、数日経つと少し寂しく思う自分が現れた。無意味だと思っていた時間は、実は私にとって必要な刺激だったのだ。

 裏風俗専門のライターをしたり、裏メンで日銭を稼いだりと、私の20代前半はおよそ人に語れるようなものではなく、たまに思い出話を溢すと「え、じゃああなたもやくざってこと?」などと言われる始末であった。裏社会に片足を突っ込んでいたのかもしれないが、それでもホンモノとは距離をとっていたつもりだ。
 蒸し暑い日の朝方だった。常連の「その筋の人」が、思い出したように卓内で語った話も、だからあまり真剣に聞いてはいなかった。自分の手はアガリが見込めるような材料がなく、しかしその日は珍しく負けこんでいて、捨て牌に気を配りながら効率のいいアガリ筋を見つけようともがいていた。
 対面のやくざから東が出た。ポンの声を出す。目が合う。
「なあ」
 東を拾う手が止まった。
「なんですか」
「あのサラリーマン風情、あんた仲良かったろ」
 行員さんのことだと気づくのに数拍かかった。
「え、ああ、いや、ここで顔あわせてたくらいですけど」
 そうか、と言ってやくざは麻雀の顔に戻った。それ以上は聞けなかった。その局は少し押しすぎて致命的な放銃をした。どんなに苦しくても、裏メンは自分からゲームをやめることを許されていない。

 ようやく卓が割れて、店長からその日の日当をもらった。負け額の10分の1も補填できない。そんなものである。
「そういえば、行員さんの話なんだったんですか」
「え、聞いてなかったの」
 店長は目を丸くして笑った。その引き笑いのまま語られた内容に、こちらはひとつも笑うことができなかった。

 行員さんは、本当に銀行員だった。しかしあくまで設定上の話である。彼は特殊詐欺の受け子だった。
 銀行員になりすまして現金を受け取るスキームが流行っていたことは、話くらいには知っていた。しかし、顔を知っている人間がその世界に身をやつしているなど、どうして想像できようか。
「まともなフリしてたけど、まぁそんなもんだったんだな」
 店長曰く、彼はついに捕まって、今は留置されているそうだ。社会は狭いもので、流れ流れてその話が常連やくざの耳に届いたという次第だった。
 全身から力が抜ける。あんたもそんな人間だったのかよと憤慨した。嫌だ嫌だと思いながら、彼と打っている時間はたしかに刺激的だったし、卓に脳を埋め込んでいるような没入感があった。一瞬でも気を抜くと狩られるような殺気を感じつつ、しかしある意味では他のカモから日銭を稼ぐ運命共同体でもあったのだ。

 程なくしてその店の裏メンから降りた。いつものように打っていても、ふと行員さんの件が脳裏によぎった途端、目の前の盤面がくだらなく思えてしまった。
 犯罪が許せなかったのではない。そんな健全な倫理観はとうに捨てている。
 私にとって行員さんは、常に合理的に物事を考える数少ない同志だった。麻雀というゲームに身をゆだねる人間は、得てして不合理で、自分の感情に振り回されがちである。内心それを見下していた。自分はそちら側の人間ではない。その優越感こそが、私を卓に縛りつけていたのだ。
 犯罪行為に手を染めて、刹那的な小銭で人生を棒に振るのは、この上ない「不合理」だ。牌を交わしていた行員さんと不合理な犯罪者が、どうしても同一人物だとは思えなかった。しかし現実は後者だった。その食い違いに、己の見る目のなさを恥じ、同時に怖くなった。

 自分はまともだと思い込んでいた。どうしようもない世界に身を置きながらも、心の底には優越感が横たわっていた。
 しかし、ギャンブルでいくら合理的でも、他のフィールドでそうだとは限らない。ギャンブルでの優劣は人生について何も担保してくれない。行員さんの一件で、そんな当たり前のことを痛烈に思い知らされた。

 繁華街の立て看板がいつもより鬱陶しい夜、私はギャンブルと訣別するに至った。人生とギャンブルを切り離し、自尊心のやり場を他に求めることにしたのだ。
 そうして別れたはずのギャンブルが、ふたたび自分の人生と同化していったのは、まだ先の話である。


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